【津和野騒動】滅んだ戦国の雄・尼子氏の再興派 vs 現津和野藩主派の主導権争いが巻き起こした御家騒動 (津和野藩/島根県)
江戸時代の「御家騒動」事件簿 【第3回】津和野騒動(津和野藩/島根県)
津和野(つわの)藩にはかっての領主である尼子(あまご)氏残党が存在。藩の要職につくものもいた。お家再興を目指す尼子派家臣たちは、権謀術数(けんぼうじゅっすう)を駆使し、津和野藩乗っ取りをたくらむが…

江戸に幕府が誕生し、全国にはその土地とは何のかかわりもない藩という組織が多数誕生した。藩内部には藩主の譜代家臣と、もともとその土地に根付いていた武士も召し抱えられ、同じ家臣団に間で対立の遠因となった。イラスト/永井秀樹
津和野騒動も、家臣団が2つに割れて相争した御家騒動だが、その陰には戦国時代に滅びた尼子氏の再興という動きがあった。
元和5年(1619)8月、津和野藩主・亀井政矩(かめいまさのり)は、上洛の途中で事故死した。まだ30歳という若さであり、津和野に入って僅か2年目のことであった。跡目を相続する嫡子・大力(後の茲政・これまさ)はまだ3歳であり、当時の幕政では嫡子が15歳に達していない場合、家督相続は許されなかったのだが、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)は特例として3歳児の相続を認めた。この相続で嫡子が幼少であったことが、後の家臣団同士の御家騒動につながったのである。
幕府も藩主幼少を危惧してか、相続3年後には藩の重臣らに「幼君・大力を守り立てる」ことを誓わせる連署の起請文を提出させている。そのメンバーは、湯杢允(ゆ・もくすけ)・多胡(主水)真清(たごさねきよ)・塩谷権兵衛・多胡勘解由(たごかげゆ)・湯八郎右衛門など18人に加えて馬廻(うままわり)衆なども連署花押(れんしょかおう)した。
実は重臣たちのほとんどが、尼子氏の一族や遺臣たちであった。というのは、元来亀井氏(当時は湯を名乗っていた)も尼子家の家臣団の一員であったが、豊臣秀吉の時代に幼藩主・大力の祖父・茲矩が鹿野城(しかのじょう)の城主に取り立てられ、徳川家康の時代になってからも「亀井氏」として一国一城の主として続いた。尼子時代からの同僚・家臣などはそのまま亀井氏の下に入って生き延びたが、旧尼子グループは、何かと結束する風潮が津和野藩内部に広がっていた。
しかも、そうしたグループは分裂して行く傾向にもあった。藩主・政矩の急死や幼少の大力の継承、さらには亀井一族の血統に繋がる多胡主水の執政就任などが、2つに分かれた重臣間のそれぞれの結束に拍車を掛けた。
寛永12年(1635)4月、大力(茲政)が19歳になった時に、両派の争いは急速にエスカレートした。執政・多胡主水、湯杢允を中心とした大力組と、年寄・多胡勘解由、塩谷権兵衛、湯八郎右衛門らを中心とした勘解由組が反目し、しかも重臣ばかりか中小姓から下士に至るまで、全ての藩士が両派の争いの渦中に巻き込まれていった。両派の閨閥は複雑に入り組んではいるが、大別すれば大力組は亀井氏派であり、勘解由組は尼子氏再興派といえた。
この年4月、勘解由組の重臣6人が亀井一門に宛てて多胡主水らの独断専行・藩主軽視など11条を記した訴状を挙げた。さらにある村の庄屋を江戸に派遣して、江戸町奉行所に「主水の長男・監物が伏見で辻斬りをした」などというでっち上げを偽証した。
窮地に立たされた主水は、幕府に「覚え書き」を提出した。5月になって幕府は、目安や覚え書きを吟味して、両派を江戸に呼び出し寺社奉行や大目付・柳生但馬守などを立会人として対決させた。その結果、主水組の申し開きには落ち度がなく、勘解由組は申し開きできなかった。そして勘解由組の完全な敗北となった。
勘解由組の首謀者6人は切腹、他に77人が追放処分となった。翌年、大力組の執政・多胡主水は家中の重臣層を多胡一族で固める家臣団の再編と軍事強化に取り組んだ。