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赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、浅野内匠頭の怨霊鎮魂が目的だった?

鬼滅の戦史106


元禄15年(17021214日(旧暦)に、47名の赤穂浪士(あこうろうし)が、吉良(きら)邸に侵入して上野介(こうずけのすけ)の首を刎(は)ねた討ち入りが行われた。一般的には、武士道の観点から藩主の仇(あだ)を討つためであったと認識されることが多いようである。しかし、御霊(ごりょう)信仰という視点から見れば、藩主が怨霊と化して祟(たた)ることを避けるためとみなされることもある。その真相を考察してみたい。


 

刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭が即日切腹

吉良上野介に斬りかかる浅野内匠頭。『忠雄義臣録』「第三」香蝶楼豊国筆/都立中央図書館蔵

「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」とは、いうまでもなく赤穂浪士の討ち入り事件のこと。赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で起こした刃傷沙汰(にんじょうざた)を発端とする騒動である。

 

 理由は定かではないが、浅野内匠頭が高家・吉良上野介に背後から斬りかかって傷を負わせたことで、5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が激昂。即日切腹を申し渡された挙句、赤穂藩も改易という厳しい処置がなされてしまったのである。

 

 江戸城内での刃傷沙汰が厳しく罰せられることは、これまでの例から見ても当然であるとはいえ、即日切腹という厳しい処置に加え、相手方の吉良家が一切お咎めなしということに、赤穂藩士たちの多くが納得しなかったようである。

 

 筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)や急進派の堀部安兵衛(ほりべやすべえ)らを中心として、吉良邸への討ち入りか密かに計画されたのだ。

 

 そして、刃傷沙汰から1年9カ月が過ぎた元禄151702)年1214日(旧暦)午前4時頃、本所松坂町にあった吉良邸に、大石内蔵助率いる総勢47名の赤穂浪士たちが、表門、裏門を打ち破って一斉に侵入。台所の裏の物置に隠れていた吉良上野介を捕らえ、見事その首を討ち取って、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓に供えたのである。

 

 その後、赤穂浪士たちは細川越中守綱利など4大名家にお預かりとなり、幕府に命じられて、各大名屋敷において切腹したのであった。この討ち入りが、藩主の恨みを元藩士たちが晴らしたとして、江戸市中を賑わしたことはいうまでもない。

 

襲撃は浅野内匠頭の怨霊を鎮めるため?

 

 それにしても気になるのが、浅野内匠頭がなぜ吉良上野介に斬りかかったのかという元々の理由である。

 

 本丸御殿の大広間から白書院へ繋がる松之大廊下を歩いていた吉良上野介に、後ろから浅野内匠頭が斬りつけた際、「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけたというから、浅野内匠頭が吉良上野介に何らかの恨みがあって襲いかかったことは間違いない。

 

 その理由としてよく取りざたされるのが、勅使饗応役(きょうおうやく)を仰せつかっていた浅野内匠頭が、儀式指南役であった吉良上野介から嫌がらせを受けていたというものである。賄賂を拒否したことで、わざと指示すべきことをせず、失態を招くように仕向けたとか。そればかりか、常日頃から礼を知らないと嘲笑したりすることも多かったとまで言われている。

 

 その一方で、浅野内匠頭の乱心によるものとの説もあるが、それを刃傷沙汰の理由とするのには、少々無理がありそうだ。やはり、荷が重い勅使馳走役を仰せつかったことで心痛が絶えなかったところに、吉良上野介の嫌がらせが輪をかけたと見なすのが妥当と考えられそうだ。

 

 もちろん、浅野内匠頭の短気な性格が災いしたことはいうまでもないが、彼にとっての元凶は吉良上野介だったはず。自らが切腹を命じられたことは致し方ないとしても、吉良上野介がお咎めなしというのは、本人としても納得できなかったに違いない。死して後も恨みが晴れることがなかったわけであるから、怨霊と化したとしても不思議ではないのだ。

 

 実は、この点を指摘する識者も少なくない。

 

 赤穂浪士らが吉良邸に押し入ったこと自体、浅野内匠頭の怨霊をなだめるためのものであったとまで見なされることもあるのだ。遺恨の果てに、江戸の町に漂い始めた浅野内匠頭の怨霊。江戸当時の怨霊信仰を踏まえれば、討ち入りはそれを鎮めるための一種の通過儀礼としても考えることができる。これまでのような武士道の観点から一歩離れたこの視点には、実に興味深いものがありそうだ。

 

 また、切腹を命じられて死んでいった、赤穂浪士たちまでもが怨霊と化して祟ることを恐れた人もいたという。さらには、それが、明治天皇であったとも。

 

 明治元年(1868)、明治天皇が泉岳寺に勅使を派遣して、反逆者として死した赤穂浪士たちを公式に顕彰。明治331900)年には、赤穂の大石神社の創設を許可している。四十七義士命らを祭神として祀ることで、その霊を鎮めようとしたというのだ。これも一種の御霊信仰の表れであろう。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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