斯波氏・今川氏・斎藤氏らが台頭した「東海」戦国勢力図
戦国武将の領土変遷史⑪
東海の名門・今川氏から栄華を築く氏親・義元が登場
遠江に出兵した駿河の今川義忠が文明8年に敗死したあと、子の氏親(うじちか)が叔父・北条早雲(ほうじょうそううん/伊勢宗瑞/いせそうずい)の支援で家督を継ぐ。氏親は遠江を制圧したほか、検地を行い、分国法として「仮名目録(かなもくろく)」を制定。こうした施策により、今川氏は氏親の代に戦国大名へと転化したのである。
氏親が大永6年(1526)に没すると、嫡男の氏輝(うじてる)が跡を継いだが、天文5年(1536)に24歳で急死してしまった。しかも、氏輝のすぐ下の弟・彦五郎(ひこごろう)も亡くなるという異常事態となった。死因は判然としないが、家督争いに巻き込まれて暗殺された可能性が高い。
氏輝には子どもがまだいなかったらしく、氏親の正室であった寿桂(じゅけい)尼には、子の栴岳承芳(せんがくしょうほう)に家督を継がせようとした。
しかし、これに異を唱えたのが、承芳の異母兄にあたる玄広恵探(げんこうえたん)である。恵探の母は氏親の側室で、今川氏の重臣・福島氏の出身だった。ふたりとも出家していたが、還俗(げんぞく)したうえで今川氏の家督を継ごうとしたのである。
平和的な交渉は決裂し、兵を挙げた恵探自身は、住持を務める遍照光院(へんじょうこういん)の背後にある花倉城(はなくらじょう)に籠城したが、結局、攻め込まれて敗死する。この花蔵(はなぐら)の乱に勝利した栴岳承芳が還俗して義元(よしもと)と名乗った。
義元は、父・氏親が制定した「仮名目録」に条文を追加した「仮名目録追加」を制定する。ちなみに、氏親の「仮名目録」と義元の「仮名目録追加」を合わせて「今川仮名目録」とよんでいる。今川氏は、「今川仮名目録」によって法治を図り、戦国大名として発展していく。
そうしたなか、義元は、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模(さがみ)の北条氏康(うじやす)と甲相駿(こうそうすん)三国同盟を結ぶ。これにより、背後を固めた義元は、三河へと侵攻していった。
そのころ尾張では、応仁・文明の乱の原因をつくったともいえる斯波氏の勢威は衰え、尾張8郡は、岩倉城を本拠に北部の上四郡を支配する織田氏と、清須城を本拠に南部の下四郡を支配する織田氏にわかれて統治されていた。
このうち、清須城主織田氏に仕える三奉行のひとりだった織田信秀(のぶひで)が台頭し、尾張を代表する勢力になっている。主家をしのぐほどの勢威を誇った信秀は三河にまで進出を果たし、天文17年には、三河に進出していた今川義元の軍勢を三河・小豆坂(あずきざか)で迎え撃っている。
この戦いで信秀は敗れたが、安祥(あんじょう)城を拠点に、今川氏と対峙していた。こうして三河での戦線が膠着するなか、信秀は美濃への介入も強めていく。