政宗が家康に取り付けた百万石のお墨付きはどうなったのか?
戦国武将の領土変遷史④
秀吉は加増を餌に味方に付けと使者を派遣
慶長7年(1602)5月、政宗は宮城郡国分・千代(せんだい)の青葉山に新しい城を完成させた。仙台城(青葉城)である。その後、検地を重ねた政宗は、さらに北上・迫(はさま)・江合(えあい)の三大河川を改修し、石巻に港を築き諸国の物産を集積した。新田開発も進み、増産された米は江戸で売り、藩の財政を潤した。これによって表高は低いものの、実高100万石を達成したのだった。
時は移り、慶長16年3月。後水尾(ごみずのお)天皇の即位に際して上洛した家康は、豊臣秀頼(ひでより)と二条城で会見した。その4月、家康は在京の大名22人に対して幕府の命令に背かない、という誓詞を提出させた。さらに、その翌年には上洛していなかった関東・東北の大名65人から、同様の誓詞(せいし)を取った。いずれ起きるであろう「豊臣家との最後の戦さ」に備えての対策でもあった。
これまでも秀吉が手こずり、家康も気を遣ってきた奥羽の大名たちをどのようにして味方として引き付けておくか。家康にとって、奥羽の大名の動向は気になるところである。「大坂との決戦」に際して、背後に控える奥羽の大名たちの動向は、徳川政権の死命を制するかもしれないからだった。
政宗をはじめ奥羽の大名たちはいずれもこの「誓詞」を提出した。そして、大坂との手切れの際にはすぐさま合戦に駆け付ける、という一文まで入れた大名もあった。
慶長19年、大坂の陣が起きる直前、豊臣家から「100万石の領地」を餌にして味方になるようにという勧誘があった。政宗は使者を捕らえると、江戸に送り「徳川家に対して二心がないこと」を証明した。
10月、大坂冬の陣が起きる。政宗は、嫡男・秀宗(ひでむね)、2代目小十郎・片倉重綱などを伴って出陣した。和議が成って翌年、元和元年(1615)4月には夏の陣が勃発。伊達勢は豊臣方の牢人・後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)を討ち取り、真田信繁(さなだのぶしげ)とも激戦を繰り返した。
この大坂の陣には、家康の対策が効を奏し、奥羽からも多くが参戦した。主なところでは佐竹義宣(よしのぶ)・上杉景勝(かげかつ)・秋田実季(さねすえ)・南部利直(としなお)・相馬利胤(としたね)・津軽信牧(のぶひら)らである。
監修・文/江宮隆之
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