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義父・筒井順慶の汚名を関ヶ原で注いだ筒井定次(東軍)

「関ヶ原の戦い」参戦武将たちの本音! 第16回 


許多の戦国武将たちがおのれの人生をかけて戦った関ヶ原合戦──。その関ヶ原合戦にはこれまであまり知られていない武将も参戦した。ここではそれらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。今回は、亡き義父・筒井順慶の汚名を払さんと死力を尽くして戦った筒井定次に迫る。


筒井定次 つつい・さだつぐ
所領/伊賀上野など約20万石
動員兵力/2,500人(推定)
布陣場所/田中吉政隊の左翼にて、西軍・宇喜多秀家隊と対峙
合戦での動向/福島隊の補助戦力として宇喜多隊の壊滅に貢献
戦後の処遇/本領安堵

 

 「10年一昔」という。あれは、本能寺の変があった天正10年(1582)からだから、既に18年も経っている。右府様(織田信長)を討った日向守(明智光秀)を裏切って太閤殿下(豊臣秀吉)に従い、山崎合戦を戦った義父・筒井順慶(つついじゅんけい)は洞ヶ峠(ほらがとうげ)で様子見をしたことを「裏切り」の代名詞のように言われ続けて死んだ。養子となって以来、私自身もそうした義父の「汚名」にどれほど悩まされてきたことか。あの折の真実は、義父しか知らぬことであろうけれど。私は太閤殿下に従って様々な戦いに従軍した。だが常に殿下からは、白い目で見られていたような気がする。

 

 此度の内府公(徳川家康)の上杉征伐には、素直に従った。すると治部少輔(石田三成)などが「洞ヶ峠の筒井の養子じゃ」とあざ笑った、などという噂も聞こえてきた。どうやら、豊臣恩顧を忘れて内府公の東軍に身を投じたことを揶揄されたようだ。私が治部ら西軍の旗揚げを受けて内府公の反転西上に従うと、治部めは手の者に我が居城である伊賀・上野城を攻撃させて落とし、占拠したという。留守居の家臣団も離散したとか聞かされて、私は内府公の命令で急ぎ伊賀上野に取って返して居城を奪還した。それからまた東軍に戻ったのだが。

 

 この関ヶ原に布陣する直前、美濃侵攻の際に、我が部隊2千500は福島正則(ふくしままさのり)殿の軍勢に属すことになった。内府公にそれを命じられた時にも「筒井の裏切りを恐れているから、福島隊に所属させたのか」と思い、カッとなった。怒りと恥辱で、身体が熱くなったことも覚えている。これも義父の「汚名」ゆえか。汚名はいつまでも付いてくるものだな。

 

 ところが、この福島隊。何と弱いことか。目の前に布陣する西軍・宇喜多秀家(うきたひでいえ)勢に圧されまくっているではないか。しかも最前線にいる敵勢は、名将の誉れ高い明石全登(あかしてるずみ)の部隊だ。何といっても明石隊は鉄砲の使い方が上手い。福島隊を十分に引き付けておいて一斉射撃し、頃合いを見計らって鑓隊を入れ、1呼吸してから騎馬隊が繰り出すのだから。緩急に隙間がない。見ていたら、福島隊は4、5町(約440~550㍍)も退却せざるを得ないほどだった。

 

 我ら筒井勢と、我らに隣接していた加藤嘉明(かとうよしあき)の部隊が横合いから宇喜多勢を攻撃しなかったら、恐らく福島隊6000は壊滅していただろう。我らの死に物狂いの奮戦を、内府公は見ていてくれただろうか。我らの反撃に、見る間に明石隊は引いた。見事なものだ。攻撃も引き際も本当に海の潮が寄せて返す如くの采配であった。いずれにしてもこの緒戦、何とか引き分けに持ち込んだ感じではある。さて、次の戦さは誰が相手で、どうなるか。私は決して引き下がらない。再び西軍に身を置く気はない。義父以来の「汚名」を注ぐ絶好の機会であるから。

 

        ◇

 

 戦後は伊賀・上野20万石の所領を安堵されたが、8年後に改易となり磐城平・鳥居氏に預けられるが、大坂冬の陣で豊臣方に内通したとして自刃を命じられる。享年54。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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