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負けは覚悟の上。義に殉じた知られざる英傑・平塚為広(西軍)

「関ヶ原の戦い」参戦武将たちの本音! 第15回 


関ヶ原合戦はあまたの武将たちが全国から募り、日本史上でも最大級の合戦といっても過言ではない──。その関ヶ原合戦にはこれまであまり知られていない武将も参戦した。ここではそれらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。今回は、秀吉への恩義を想い、忠義を貫いた平塚為広に迫る。


平塚為広 ひらつか・ためひろ
所領/美濃垂井1.2万石
動員兵力/300人(推定)
布陣場所/松尾山麓
合戦での動向/大谷吉継の寄騎として、裏切った小早川軍などを相手に奮戦
戦後の処遇/改易

 儂(わし)は指揮官の大谷刑部少輔(大谷吉継/おおたによしつぐ)殿の後ろ姿を見ていた。顔を紺色の絹の袋に包み、両眼だけを見せている。その両眼も既に視力は無い筈だった。兜は被らずに朱漆(しゅうるし)の面頬(めんぽお)をしているだけであった。あの業病に掛かる前ならば、さぞかし紺の覆面と朱の頬当ては鮮やかに似合ったであろう。

 

太閤殿下(豊臣秀吉)が「刑部に100万の兵を与えて思うままに戦さの指揮を取らせてみたい」と申されたという刑部殿だが、今ここにいる刑部殿は僅か越前・敦賀5万石に過ぎず、率いる手兵も100万どころか1500しかいない。それでもその1500は意気盛んであった。

 

 先ほど、儂を訪ねてきた刑部殿は「目の見えぬ儂には1500の指揮さえ難しい。平塚殿、儂の兵600を割くから引き受けて戦ってくれぬか」と申された。儂は、1も2もなく申し出を受けた。儂と戸田重政(とだしげまさ)は太閤殿下麾下の直臣であり、此度の戦さも太閤の子・秀頼公を守るためならば、と西軍に参戦した。儂は美濃・垂井1万2千石、戸田は越前・安居1万石の小大名ゆえに、兵の動員もままならぬ。儂が300,戸田が250であった。そこに刑部殿の600を預かり、我ら2人で併せて1150になった。何とか敵と戦える格好にはなった。

 

 だが、刑部殿は一括して与力として指揮し、ともに北陸から転戦してきた他の4人、朽木・脇坂・小川・赤座の軍勢を我らの後方に引かせた。どうしてか、と問うと「あの4人は、関ヶ原に着くや戦意が上がらず、どこまで西軍として戦うか疑問だからだ」と言っていた。それどころか、松尾山に陣取る金吾殿(小早川秀秋/こばやかわひであき)にも「裏切り」の疑念を持っているようであった。

 

 やや、東軍の藤堂高虎(とうどうたかとら)2500・京極高知(きょうごくたかとも)3000が、我らを目掛けて進軍している。5500と2100。ほぼ2倍半の敵勢を相手なら不足なし。儂も刑部殿の「100万の采配」を見る最後の機会になるであろう。目を凝らして見ながら、支援の限りを尽くすつもりだ。よし、刑部殿の命令は眼前の富士川を渡って敵中に雪崩れ込めとのことじゃ。

 

「者ども、行くぞ!」

 

 と……。あれから半刻(約1時間)。よく戦った。藤堂・京極の5千500を何度も追い散らす奮戦は素晴らしかった。自画自賛とはこのことだが、儂も老体に鞭打って得意の十文字鑓を振るった。まさにこの鑓の血が乾く間もなく敵を突き伏せた。その時だった。松尾山から喚声が上がり、小早川勢1万5000が我らに向かって、振り落ちてきた。

 

 そして今。東軍の援軍・山内一豊(やまうちかずとよ)勢が我らの横合いを衝いてきた。「山内家臣・樫井多兵衛」「同じく横田小半助」と名乗る武者が掛かってきたので儂は先ず、横田と名乗る男を十文字鑓の餌食にした。そこで息が切れた。その隙を衝かれた。樫井という武者の鑓が鷲の腹を貫いた。儂は苦しい息の下から「豊臣家直臣・平塚為広。この首、汝の宝にせよ」と言い残した。意識が遠のいていく……。

 

         ◇

 

 為広は本戦で討ち死にし、戦後その所領は没収となったが、家康は為広の武勇と旧家の生まれであったことを惜しみ、後に為広の子どもの1人を家康十男で、のちに紀州徳川家の祖となる徳川頼宣(とくがわよりのぶ)に出仕させたという。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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