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豊臣秀吉に尽くしながら、関ヶ原では徳川方に与みした寺沢広高(東軍)

「関ヶ原の戦い」参戦武将たちの本音! 第14回 


様々な武将が参戦した関ヶ原合戦──。今では取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカス。武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。ここでは、秀吉に世話になりながら、事情により、家康軍に付いた寺沢広高に迫る。


寺沢広高 てらさわ・ひろたか
所領/唐津8.3万石、
動員兵力/1,500人(推定)
布陣場所/不明
合戦での動向/福島正則、藤堂高虎ら主力軍の予備隊として活躍
戦後の処遇/本領に加え天草に2万石加増

 拙者は、父・寺沢広政(てらさわひろまさ)の子として尾張国に生まれたが、その縁もあって父子ともに太閤殿下(豊臣秀吉)に仕えた。天正20年(1592)の、あの唐武陣(朝鮮出兵)では朝鮮に渡ろうという殿下の接待役を肥前・名護屋城にて務めた。それにしても唐武陣での同僚たちの戦いぶりは、海のこちら側にも毎日のように伝えられて来たっけ。拙者も、あの時は29歳。海を渡って朝鮮に行き、手柄を立てたいと願ったが遂に叶わず、兵糧の補給や出陣している藷武将との連絡役に徹した。そうそう、唐武陣では司令塔になっていた小西行長(こにしゆきなが)と共同で様々な作業を行った。小西は、商人上がりなどと虎之助(加藤清正/かとうきよまさ)などからは、半分嘲られていたようだが、どうしてどうして。虎之助などよりも遙かに未来を見つめ、未来に対処する術を持っていた。この関ヶ原では東軍と西軍、敵味方に分かれてしまったが……。

 

 武功などないにもかかわらず、拙者は殿下から褒められて、唐津8万石の大名として出世を果たした。太閤殿下は「父子ともども、長年儂のために命を的にして働いてくれたことへの感謝じゃ」と言ってくれた。その太閤殿下の遺命を守り、秀頼公を守るために、と治部少輔(石田三成)が立ち上がったのだが、拙者はどういう訳か、内府公(徳川家康)の東軍に身を預けている。今の拙者の立場を殿下が見たら、嘆くだろうなあ。いやいや、怒って刀を振り上げるかも知れぬ。

 

 太閤殿下には有り難いほど良くされた。しかし、どうも治部少輔とは気が合わぬ。無理もない。殿下存命中から、尾張出身者と近江出身者とは相容れない部分があった。虎之助などはその代表的存在であった。とはいえ、九州に所領を持つ大名の多くは西軍に与しているというのに、拙者と虎之助は最初から東軍、つまり内府公(家康)に入れ込んでいた。虎之助は熊本に在城したままで東軍を標榜しているが、黒田長政(くろだながまさ)の父・如水(官兵衛)殿などは何を考えているのやら、分からぬ。

 

 拙者は、こうして内府公にべったりくっついて関ヶ原まで来たが、この直前には美濃や岐阜方面の戦いに参加して、さほどではないが武功も立てた。唐武陣以来の島津家との深い縁もあって、島津維新入道(島津義弘)との仲介も依頼されたが、島津側は固い。とにかく、今は東軍が勝利すべく最大の働きをするしかあるまい。目の前の事態に全てを出し切って臨む。それが、拙者の生き方だったからな。

 

 さ、決戦じゃ。命を惜しむな、名こそ惜しめ。戦国最後の戦いを花で飾ろうではないか。

 

        ◇

 

 関ヶ原を勝者として終えた広高は、唐津に加えて肥後・天草に所領を得て12万石となった。戦後の島津氏と家康との間の斡旋にも力を尽くした結果といわれる。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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