畠山重忠ゆかりの「恋ヶ窪」悲恋伝説とは?
鬼滅の戦史87
元・平氏ながら頼朝に帰伏した畠山重忠は、若いながらも、頼朝から目をかけられた期待の星であった。「坂東武者の鑑」とまで称えられたこの御仁には、遊女との悲恋物語が言い伝えられているが、どんな内容だったのだろうか?

畠山重忠肖像 東京都立中央図書館蔵
平氏ながらも頼朝に与する
畠山重忠(はたけやましげただ)といえば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』において、女性にも人気の高いイケメン俳優・中川大志氏が演じていることから、ご存知の方も多いはず。
ドラマ内でも清廉潔白な人柄で、武勇にも優れた「坂東武者の鑑」との設定で描かれているが、史書に記された重忠像も、概ねそのままである。ただし、実はとてつもない力持ちで、女武者としてその名を轟かせた巴御前(ともえごぜん)さえ、尻尾を巻いて逃げ出したと言うほど。
鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)でも、馬を損ねてはならじと、自ら馬を背負って坂を駆け下りたとの逸話まで言い伝えられている。となれば、実際にはもう少し骨太な人物だったというべきかもしれない。
また、義経の愛妾(あいしょう)・静御前(しずかごぜん)が頼朝の前で白拍子(しらびょうし)の舞を演じざるを得なくなった際には、重忠自らが銅拍子(どうびょうし)を打って伴奏を務めたというから、武芸ばかりでなく、諸芸にも秀でた御仁だったことがわかる。
ちなみに重忠、元々は平氏一族の一員である。桓武平氏・平良文(たいらのよしふみ)の子孫である秩父平氏の出自であった。頼朝が挙兵した当初は、頼朝を討伐する側に与していたことを思い起こしていただきたい。
石橋山の戦いに敗れて潰走する頼朝であったが、安房にたどり着いて再挙。武蔵にたどり着いた頃には数万もの大軍となった。この頼朝の勢いに、然しものの重忠も、帰伏するしかなかった。帰伏するにあたって、重忠が源氏白旗を掲げたが、これは4代前の武綱が、八幡太郎こと源義家から、後三年の役の際に賜ったもの。その経緯を聞いた頼朝が喜んだことはいうまでもない。重忠、17歳の頃のことであった。その若者に、頼朝は鎌倉入りの先陣という、いわば武将としての最高の栄誉を与えた訳だから、頼朝の信頼と期待が大きかったというべきだろう。
頼朝が頼りとしていた北条時政の娘(六女)を正室として迎え入れたことも、頼朝を安心させた一因だった。その後も、平氏追討や奥州合戦などで活躍。数々の武功を挙げたようである。
重忠を愛した遊女との悲恋物語
さて、今回の本題は、ここからである。伝説として言い伝えられてきた重忠も、実はかなりモテたようなのである。東京都国分寺市に「恋ヶ窪(こいがくぼ)」という地名が残されているが、それが、重忠に恋い焦がれたとある女性ゆかりの地である。何はともあれ、その恋物語を振り返ってみることにしよう。
物語の始まりは、重忠が西国へ平家討伐に向かう前のことである。この頃の重忠、どういう経緯で遊女宿に通うようになったのかはわからないが、鎌倉街道の宿場町の一つ・恋ヶ窪宿で、遊女夙妻太夫(あさづまたゆう)と出会って、恋仲になったようである。重忠が太夫会いたさに足繁く通い詰めるも、平家追討の命を受けて西国へ旅立たなければならなくなってしまった。その身を案じる太夫が、「一緒に連れて行って欲しい」と言い寄るも、戦場行きゆえ、願いが叶えられるはずもない。その後一年も二年も、太夫は重忠の身を案じて暮らすばかりであった。
そんなある日のこと、太夫に思いを寄せる一人の男が、「重忠が討ち死にした」と嘘をついた。重忠への思いを断ち切らせようとしたのである。これを信じた太夫、哀れにも、姿見の池に身を投げて死んでしまったのである。哀れんだ村人が彼女を手厚く葬り、一本の松を植えたとか。その後、武蔵に戻った重忠が太夫の死を知って悲しみにくれたことは言うまでもない。
彼女を供養するために、無量山道成寺を建立したとか。前述の姿見(すがたみ)の池というのが、現在の西恋ヶ窪(にしこいがくぼ)にある、その名もズバリ、姿見の池である。一本松は、その北西数百メートルの東福寺境内にある一葉松(三代目とか)のことだとか。

畠山重忠肖像 国立国会図書館蔵
牧の方に睨まれて敗死
この伝説が果たして史実に基づくものなのかどうか定かではないが、重忠を含め、取り巻く人々の真っ直ぐな心根に、心打たれるところがある。
しかし、実のところ、史書に記されたその後の重忠に目を向けてみるのは、少々心苦しい。頼朝亡き後のこの御仁、どうやらツキも落ちて、不運なことばかりだったからである。
北条時政の娘との間に生まれた重保(しげやす)が、時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)と、酒席において口論になったことが彼の悲運の始まりであった。これを知った牧の方(まきのかた)が激怒。夫・時政に、重忠と重保親子が謀反(むほん)を企(くわだ)てていると讒言(ざんげん)し、その追い落としを図ったからであった。時政とすれば娘婿である重忠を追い詰めることになるわけで、気が進まなかったに違いない。それでも、牧の方には逆らえなかったと見えて、渋々ながらも、三浦義村(みうらよしむら)に重保殺害を命じたようだ。
息子を殺されたことを知らずに鎌倉入りした重忠も、二俣川(横浜市保土ヶ谷区)に差し掛かったところを北条氏の大軍に攻められて殺されてしまった。重忠側134、北条氏側数万という圧倒的な兵力差であったが、重忠はこれをものともせず、果敢に戦い続けたといわれている。
ちなみに、重忠が謀反を企てているとの知らせを時政の子である義時は信じなかったとも記録されている。北条氏の名誉を重んじるとすれば、それだけがせめてもの救いだったと言うべきか。ついでながら、その後牧の方は、夫である時政とともに御家人たちから嫌われた挙句、子である義時から追放された。重忠ファンにとっては、溜飲を下げる話となったに違いない。