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徳川家康が天下人への道の礎を築いた「浜松城」

今月の歴史人 Part.4


2023年の大河ドラマ『どうする家康』で松本潤さんが演じることが決まった主人公・徳川家康。家康は浜松城の城郭整備や城域拡張も進めた。野面積みの石垣で知られる徳川300年の歴史を刻む出世城について解説する。


 

 

■武田の築城技術を巧みに取り入れて何度も改修

 

浜松城といえば野面積みが有名。自然石を上下に組み合わせて積んでいる。天守は16世紀末の城主・堀尾氏が創建したが、その後、焼失した。野面積みの天守台は残ったものの、以後は再建されていない。

浜松城といえば野面積みが有名。自然石を上下に組み合わせて積んでいる。天守は16世紀末の城主・堀尾氏が創建したが、その後、焼失した。野面積みの天守台は残ったものの、以後は再建されていない。

 

 家康が、遠江国支配の中心に定めた「引馬宿(ひくまじゅく)」は、東海道の宿場として国府・見付けをしのぐほどの賑わいを見せ、市も開かれるなど、商業的な拠点として名実ともに浜松荘の中心であった。

 

 当初の引馬城は、東海道を見下ろす丘陵地に築かれていた。後に「古城」と総称される場所で、方形の土塁に囲まれた曲輪が田の字状に配されている。また、古城の外周には水堀が廻っていた。江戸期の絵図には西に明光寺(みょうこうじ)口、南東に下垂(しもだれ)口、北に元目(げんもく)口と3カ所の虎口が描かれている。現状でも古城跡が周辺域では最も高所で、丘陵上に位置していたことが判明する。

 

 戦国時代の天竜川(てんしゅうがわ)は、大天竜と小天竜の二筋を本流とし、西側小天竜は、現在の馬込川(まごめがわ)がわのあたりを流れていたという。従って、引馬城は、小天竜を自然の堀とし、城の北に犀ヶ崖(さいががけ)へと続く溺れ谷となった断崖地形、東から南にかけて低湿地が広がる要害の地に位置していたことになる。この地に入った家康は、引馬城の西対岸の丘陵部に中心域を移し、さらに南へと拡張工事を実施し、旧引馬城も、東の備えとして城域に取り込んだのである。

 

遠江国浜松城絵図
『日本古城絵図』に書かれた浜松城。『日本古城絵図』は全国の城220面ほどが掲載されており、古城絵図として貴重な史料。こちらの絵図は江戸後期に書かれたとされている。(国立国会図書館蔵)

 

 元亀3年(1572)以降、武田信玄・勝頼が遠江へと侵攻を繰り返した。家康は、戦闘の合間をぬって除々に浜松城の拡充を実施したようであるが、本格的な改修に乗り出すのは、武田勢力を北遠江から撤退させ、高天神城(たかてんじんじょう)を孤立させた天正5年(1577)からのことである。天正6年2月以降、各種記録に浜松城普請の記載が増える。中枢部から堀を挟んだ北西対岸の「作左曲輪」の普請もこの時で、浜松城が拡充されていったことが判明する。

 

 この間に、徳川氏の築城技術は急激に進歩する。それは、遠江に進出した武田氏の城を接収したことで、その築城術を取り込んだことが一番の理由であろう。中でも、「横堀」の使用が最も大きい変化であった。北側「作左曲輪(さくざくるわ)」や南側出丸を取り込むことを可能にしたのも、横堀の採用によるもので、中枢部を囲む堀幅をより広くし、防御構造を高くすることに成功。居城としての体裁を整えたのである。天正9年頃まで武田氏の築城技術を巧みに取り入れ改修した。この時期、すでに織田政権下では、配下の有力武将までが瓦葺の天守・石垣を持つ先進的な城を築き、土造りの城は時代遅れの城となっていた。だが、徳川家は未だ技術者集団を把握しておらず、石垣や瓦葺き建物を構築する段階ではなかった。家康の居城に「石垣普請」が登場するのは、次の駿府築城を待たなければならない。

 

監修・文/加藤理文

『歴史人』8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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