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武蔵国の権益をめぐり討伐された畠山重忠【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑬

 

畠山氏はじめ秩父一党に 敵意を抱いていた三浦義村

 

 6月22日の未の刻(午後2時頃)、北条義時率いる軍勢が鎌倉に帰って来た。時政が戦況について尋ねると、義時は「重忠の弟や親類の多くは武蔵国にいなかったので、重忠に従っていたのはわずかに百騎余りに過ぎませんでした。つまり、重忠が謀反を企てたなどという話はまったくのでたらめなのです。もし讒訴(ざんそ)によって誅せられたなどということになれば大いに不都合ではありませんか。切られた首が陣頭に持ち込まれたのを見た時、年来の交友を思い出し、涙を禁ずることができませんでした」と答えた。

 

 これに対して時政からは何の言葉も無かった。これは鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述である。つまり幕府は義時の言葉を借りることで、「畠山重忠無実」を公式に表明したのである。そして、無実の罪で不意の横死を余儀なくされた重忠の境遇を嘆かない者は無かったという。重忠を陥れたのはご存じのとおり時政と牧の方であるが、それが露見すれば北条氏が御家人たちの恨みを一身に買う危険性が十分にあった。だから義時は「大いに不都合」と言ったのである。では、義時はこの失態をどう処理し、危機をどう乗り越えたのだろうか。

 

 その日の酉の刻(午後6時頃)、再び鎌倉中が騒がしくなった。榛谷重朝と嫡男重季(しげすえ)、次男秀重父子が経師谷(きょうじがやつ)口で誅せられたのである。さらに、稲毛入道重成と子息小澤重政(おざわしげまさ)も誅せられた。榛谷父子を手にかけたのは三浦義村、稲毛入道重成は大河戸三郎(おおかわどさぶろう)、小澤重政は宇佐美与一に殺された。この事件によって鎌倉中の人々は「重忠が誅伐されたのは、ひとえに稲毛重成法師の謀略であった」と知らされる。

 

 ところで、稲毛父子・榛谷父子誅殺に関して『吾妻鏡』は「三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし」とあり、これが三浦義村の策略であったと記している。重保誅殺といい、稲毛父子・榛谷父子誅殺といい、直接手を下したのはいずれも三浦義村だというのである。

 

 一説によると義村は治承4年(1180)年9月に祖父義明が重忠に攻められ衣笠城(きぬがさじょう/神奈川県横須賀市)で討死したことで畠山氏はじめ秩父一党に強い敵意を抱いていたとする考えがある。畠山重忠の乱の背景には、北条時政と牧の方の謀略だけでなく、直接的には秩父一党に対する三浦義村の怨恨が起因した可能性がある。いずれにしても、畠山重忠の乱はこのように幕引きされたのである。そして、三浦義村の罪が問われていないことからも、義時もこのあたりが落とし所と考えたに違いない。

 

義時は同情したが重忠の遺領を遺児や肉親に安堵した形跡無し

 

 7月8日、『吾妻鏡』には「畠山次郎重忠・余党等の所領、勲功の輩に賜う」と乱の戦後処理が発表された。さらに「これは尼御台所のお計らいである、将軍家が御幼稚なのでそのようにした」とする。将軍と御家人の主従関係の根幹である恩賞給与の差配を幼い将軍に代わって、尼御台所である政子が執り行ったのである。さらに7月20日には、政子に仕える女房たちにも重忠の遺領が与えられている。ここで注意したいのは、畠山氏排除の張本人である時政が表に出ず、戦後処理にも関与した形跡が無いことである。

 

 閏7月19日、牧の方が策謀を廻らし、平賀朝雅を将軍に就けようとしているという噂が広まった。これに対する政子の動きは実に迅速だった。政子は長沼宗政、結城朝光、三浦義村、三浦胤義(たねよし)、天野遠景を遣わして実朝を時政邸から義時邸に移した。すると、時政に従っていた「勇士」はこぞって義時邸に移り、実朝を守護したという。

 

 父時政に対し、重忠の無実を涙ながらに訴えた義時ではあったが、重忠の遺領を遺児や肉親に安堵したという形跡は無い。

 

 さらに義時は、7月26日に京都の平賀朝雅を殺害した。こうして義時は惣検校職の秩父一党と、武蔵守の平賀朝雅がいなくなった武蔵国をほぼ完全に手中に収めたのである。さらに義時は元久元年(1203)3月に従五位下・相模守に叙任されていた。相模守と武蔵守はのちにふたり執権制(執権・連署/れんしょ)に移行すると、将軍の意を奉じる関東下知状や関東御教書(みぎょうしょ)に両名が「相模守平」「武蔵守平」と署判したことから、北条氏と執権政治を象徴する官職となった。

 

 没収を免れた重忠の所領は重忠の妻に安堵された。重忠の妻とは時政の前妻の娘である。この妻は足利義純(よしずみ/新田岩松氏の祖)に再嫁して、義純が畠山氏の名跡を継いだ。

 

 また、重忠の末子重慶は建保元年(1213)9月に謀反の疑いで殺されている。これにより平姓畠山氏は消滅し、後に室町幕府の管領家となる足利一門の源姓畠山氏として再生することになった。

 

 義時と政子は父時政を追放することによって、無実の重忠を討ったという御家人たちの疑念を払拭するとともに、さらに武蔵国の掌握にも成功した。幕政は北条時政の専制的な体制から、義時と政子が主導する体制へと向かったのである。

敗れた畠山重忠
重保が殺されたことを知らずに鎌倉へ向かっていた父重忠は、北条義時率いる重忠討伐軍に攻められて討死し、平姓畠山氏は滅亡した。都立中央図書館蔵

監修・文/簗瀬大輔

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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