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武蔵国の権益をめぐり討伐された畠山重忠【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑬

父重忠とは従兄弟の関係にある稲毛重成を時政があおり、重保と対決

畠山重保由比ガ浜で戦死
時政の後妻の娘婿である平賀朝雅との確執から、謀反を企てたという疑いをかけられ、由比ガ浜に呼び出された所を、時政の意を受けた三浦義村によって討たれた。国立国会図書館蔵

 武蔵国南西部には橘樹(きつき)郡の稲毛(いなげ)荘(神奈川県川崎市)を本拠とする稲毛入道重成(しげなり)と、都筑(つづき)郡の榛谷御厨(はりがやみくり/神奈川県横浜市)を本拠とする榛谷(はりがや)重成という武士があった。彼らは秩父平氏の一流・小山田有重(おやまだありしげ)を父とする実の兄弟であった。兄重成は北条時政の娘を妻とし、すでに出家の身であった。

 

 元久2年(1205)4月11日、稲毛荘にあった重成入道を舅(しゅうと)である時政が鎌倉に呼び寄せた。

 

 重成入道は郎党を引き連れ、物々しい体で鎌倉に入った。すると重成入道が、今度は武蔵の畠山重保を呼び寄せたのである。重成入道は重保の父重忠とは従兄弟の関係であり、ともに時政の娘を妻とする義兄弟でもあったが、その関係は必ずしも友好的なものではなかった。そこで不穏な空気を察した御家人たちが続々と鎌倉に集まるという事件が起こった。

 

 実はこの時、時政は重忠・重保父子の誅伐(ちゅうばつ)を企(くわだ)てていたのである。それは前年11月の京都で起こった平賀朝雅と畠山重保の口論、さらに政範の死が理由である。

 

 6月21日、時政が重忠父子討伐を義時と時房に相談した。すると義時・時房は「重忠は治承4年(1180)の挙兵以来忠勤に励み、右大将家(頼朝)からは子孫を守護するようにと特別な言葉を賜りました。比企能員の乱の時は金吾(きんご)将軍(頼家)の側近でありながら、舅である父上への礼節を重んじ、御方(実朝)として忠節を尽くしたではありませんか。いったい何の鬱憤があって謀反を企てるというのですか。事の真偽を糾明し、後悔の無いよう決断すべきです」と激しく反対し、時政は無言で退席した。

 

 ところがその後、牧の方の兄・大岡時親(おおおかときちか)が義時邸を訪れ「重忠の謀反はすでに発覚しているというのにそれを許そうとするのは、継母の私を仇と思い讒者(ざんしゃ)にしたいからからでしょう」という牧の方の言葉があり、止む無く重忠討伐に同意したという。

 

 6月22日、寅の刻(午前4時頃)由比カ浜で謀反人が誅伐されるらしいという情報が流れ、御家人たちが競い合いって軍兵を向かわせたため鎌倉中が大騒動となった。

 

 稲毛邸にあった畠山重保も郎従3人とともに由比カ浜に向かった。そこに三浦義村(よしむら)が現れ「鎌倉殿の仰せである」と言って佐久間太郎に命じて重保主従を包囲した。謀反人とは他ならぬ自分のことだったのだ。重保は佐久間の兵と勇敢に戦ったものの、ついに主従ともに討ち取られてしまった。

 

時政の手による多勢で攻められた重忠

 

 父重忠は6月19日に武蔵国菅谷館を出発し、鎌倉を目指していた。この情報が鎌倉にもたらされると、時政は先手を打って出陣し道中で誅伐させよと、義時に大手の大将軍を、時房と和田義盛に多摩川の渡河点関戸口(せきどくち/東京都多摩市)の大将軍を命じた。先陣は葛西清重(かさいきよしげ)、後陣は堺常秀(さかいつねひで)、大須賀胤信(おおすかたねのぶ)、国分胤通(こくぶたねみち)、東重胤(とうのしげたね)である。

 

 これに足利義氏(あしかがよしうじ)、小山朝政(おやまともまさ)、三浦義村、三浦胤義(たねよし)、長沼宗政(ながぬまむねまさ)、結城朝光(ゆうきともみつ)、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)、筑後知重(ちくごともしげ)、安達景盛(あだちかげもり)、中条家長(ちゅうじょうかちょう)、中条苅田義季(ちゅうじょうしだよしすえ)、狩野介入道、宇佐美祐茂(うさみすみもち)、波多野忠綱(はたのただつな)、松田有経、土屋宗光、河越重時(かわごえしげとき)、河越重員、江戸忠重(えどただしげ)、渋川武者所(しぶかわむしゃどころ)、小野寺秀通(おのでらひでみち)、下河辺行平(しもこうべゆきひら)、薗田(そのだ)七郎ら錚々(そうそう)たる武将に、武蔵の児玉・横山・金子・村山の各党が連なった。

 

 時政は当初鎌倉中の軍兵を付けて出発させようとしたが、これに不安を覚えた大江広元と三善善信(ぜんしん/康信)が時政に進言し、400人の兵を残して御所の4面を固めさせた。

 

 一方、鎌倉に向かう重忠の軍勢であるが、重忠の弟長野重清(ながのしげきよ)と重宗(しげむね)はそれぞれ信濃と陸奥に赴いていたため不在であった。よって、重忠に従っていたのは次男重秀と郎従の本田近常(ほんだぢかつね)・榛澤成清(はんざわなりきよ)以下134騎であった。

 

 午の刻(正午頃)、重忠は武蔵国二俣川(ふたまたがわ/神奈川県横浜市)の駅の鶴ヶ峰の麓に陣を置いたところで、今朝重保が誅せられ、幕府軍がこちらに向かっているということを知った。それを聞いた榛澤成清は「幕府軍は何千万騎の規模だと言いますから、我が軍勢では到底太刀打ちできません。すぐに菅谷館に引き返し、本拠地で幕府軍を迎え討つのが良策です」と進言した。

 

 重忠は「家や親のことを忘れてでも戦うのが武将の本意である。息子重保が討たれたからと言って館に帰るようなまねをしたら、重忠は命を惜しんだとか、陰謀を企てたなどと誹そしりを受けるだろう。後進の戒めとしなければならない」

 

 二俣川でついに重忠軍を捉えた幕府軍は、安達景盛と野田与一、加治次郎、飽間(あきま)太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次の主従7騎に先陣を命じた。重忠は「旧友の景盛が万人を措いて先陣を務めるとは嬉しい限りだ。命を惜しまず受けて立て」と言って重秀を向かわせた。重忠軍は奮闘し、加治宗季以下の幕府方の武将を討ち取るなど、戦いは思いのほか長引いた。御家人たちが重忠を討つことをためらったともいわれる。しかし、申の刻の終わり頃(午後5時頃)、愛好季隆の放った矢で重忠が討ち捕られ、その首が季隆によって北条義時の陣にもたらされた。畠山重忠、42歳であった。

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