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「頼家派最後の砦」が誅殺された比企能員の乱【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑦

『吾妻鏡』で描かれた比企氏の乱

北条時政
時政が大江広元に能員討伐を相談すると、広元は「よく考えて行動してください」と返答。これを同意を得たと解釈した時政は、能員を誘い出して殺害。比企一族は一幡邸に籠り、館に火をつけ自害。一幡も共に焼死した。国立国会図書館蔵

 源頼朝の死後、頼家がその後継となるが、建仁3年(1203)8月7日、病により重体となる。まずは『吾妻鏡』により、比企の変の経過を見ていこう。

 

 同月27日、頼家の容態は悪化する一方であったので、その相続の取り決めがあった。それは「関西の38カ国の地頭職(じとうしき)は頼家の弟・千幡(せんまん)に譲る。関東28カ国の地頭職と総守護職は、長男の一幡(いちまん)に割り当てる」というものだった。

 

 これに憤慨したのが、一幡の祖父・比企能員だった。全てが一幡に与えられるべきものを、千幡(後の源実朝)に譲渡するのはおかしいと憤ったのだ。この時、能員は千幡と北条氏を討つ決意を固めたという。

 

 9月2日、能員は娘の若狭局を介して、頼家に次のように言上する。「北条時政を討つべきです」と。この言葉を聞いた頼家は驚き、すぐに能員を枕元に呼び、談合する。

 

 頼家は時政を討伐する許可を与えた。その話を障子の陰で聞いていたのが、北条政子であった。政子はこの話を父・時政に伝える。時政の供には、天野遠景(あまのとおかげ)と仁田忠常(にったただつね)がいた。時政は彼らに「比企が謀反を企てているため、攻めてしまおうと思う」と伝えるが、両人は「御前に呼び寄せ、始末しましょう」と提案する。

 

 時政は使者を遣わし「仏像の開眼供養を致しますのでお越し下さい。そのついでに政治向きの話も致しましょう」と伝え、能員は承諾する。

 

 使者が帰った後、時政の邸を訪問しようとする能員を親類たちが引き止めた。能員は「仏事と政治向きの話のため私を呼んだのであろう」と言うと武装もせずに邸に向かった。

 

 能員は郎等(ろうどう)2人、雑色(ぞうしき)5人を連れただけであった。能員は時政邸で天野遠景と仁田忠常に斬り殺され、その死はすぐに比企一族に伝わる。

 

 比企氏は一幡の邸に入り、防戦の構えを見せた。政子の命により比企一族を討伐する軍勢が派遣される。その中には義時の姿もあった。比企氏は死力を尽くして戦ったが、衆寡(しゅうか)敵せず、敗れる。『吾妻鏡』に描かれた能員の最後は間抜けであり、本当にそのような死に方をしたかは分からない。しかし、能員が誅殺されなかったとしても有力御家人の多くが北条氏に加勢しており、結果は変わらなかっただろう。

 

 一幡もこの時、死んだとする説(『吾妻鏡』)もあるが、母・若狭局に抱かれて邸から脱出したとする説(『愚管抄』)もある。逃れた一幡だが、11月に義時の家臣に見つかり殺害されたという。比企氏の討滅後、同氏に縁のある者は、あるいは処刑され、あるいは流罪となった。

 

『愚管抄』では事件の経緯が真逆で記される

 

 一方、『愚管抄(ぐかんしょう)』の叙述では別の光景が見えてくる。同書によると頼家は重病を理由に8月末に出家、一幡に家督を継承させる準備を始めた。ところが、それに時政が警戒心を抱き、能員を呼び出して殺害。更に一幡を殺すため軍勢を派遣した。これが『愚管抄』が記す比企氏の変だ。

 

『吾妻鏡』では頼家と能員が北条時政討伐を企てていたと記されていたが、『愚管抄』の記述は真逆である。時政が能員殺害を計画したというのだ。これに関しては、利害関係の無い同時代人の慈円が書いた『愚管抄』の方が信用できるであろう。

 

 同時代の貴族・近衛家実(このえいえざね)の日記『猪隈関白記(いのくまかんぱくき)』によると、建仁3年(1203)9月7日の朝に幕府の使者が京都に到着し「9月1日に頼家が病死したこと、頼家の弟・千幡を将軍に任命してほしい」ことを告げたという(この時点で頼家はまだ生きているにもかかわらず)。時政が9月1日か2日には使者を京に派遣したことを示していよう。

 

 この件は、時政が以前より能員を嵌めることと、その後の政権構想を抱いていたことを示しており、比企の変は時政の謀略により引き起こされたことが鮮明化する。比企氏という最大の後援者を失った頼家は程なく修善寺(しゅぜんじ)に幽閉された。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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