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「13人の合議制」にまつわる5つの謎

鎌倉殿の「大粛清」劇①

Q3 13人はどのように選ばれたのか?

武士としての勢力よりも源頼朝との親近性を重視

 

 さて、13人の構成とはどのようなものか。大江広元(おおえひろもと)・三善康信(みよしやすのぶ)・二階堂行政(にかいどうゆきまさ)・中原親能(なかはらのちかよし)は源頼朝の独裁を支えた文士である。

 

 足立遠元(あだちとおもと)は武士だが公文所(くもんじょ/政所の前身)勤務の経験があり、実務能力を評価されての起用であろう。

 

 三浦義澄(みうらよしずみ)・和田義盛(わだよしもり)は相模(さがみ)三浦一族である。

 

 八田知家(はったともいえ)・梶原景時(かじわらかげとき)は頼朝側近の立場からの参加だろう。ただし義盛・景時は侍所の別当・所司の立場からの参加でもある。

 

 比企能員は頼家の舅(しゅうと)にあたる。

 

 安達盛長は流人時代から頼朝に仕えた股肱(ここう)の臣だが、比企尼(ひきのあま)の長女を妻としているので、比企派として参加したのだろう。

 

 親子で参加しているのは北条時政・義時だけである。義時は唯一、30代で13人の宿老に入っており、異例の抜擢と言える。義時が頼朝側近であったことが選出理由だろうか。

 

 13人の宿老は、大別すれば源頼朝の独裁を支えた側近の文士・武士(大江広元・三善康信・二階堂行政・中原親能・足立遠元・八田知家・梶原景時)と、東国の有力御家人の2種によって構成される。先述の通り、宿老制の導入は必ずしも頼家の権力を制約するものではないが、頼朝独裁によって押さえつけられてきた有力御家人層の巻き返しの側面を有することは事実である。

 

 もっとも、13人の宿老に参加した東国御家人が東国武士の利害を代弁する存在かと言うと、やや微妙である。北条時政、比企能員、安達盛長は源頼朝との関係が深く、東国武士一般とは懸け離れた存在である。三浦義澄・和田義盛は鎌倉に近い三浦半島に本拠地を持つ相模武士であり、やはり東国武士を代表する存在とは言えない。実際、小山(おやま)氏や千葉氏といった有力東国武士は参加しておらず、13人の宿老にはかなり偏(かたよ)りがあった。武士としての勢力よりも、頼朝との親近性の方が重要な選出基準だったと言えよう。

Q4 発案者は誰だったのか?

 まず比企能員(ひきよしかず)。建久9年(1198)、比企能員の娘の若狭局(わかさのつぼね)が源頼家の長男・一幡(いちまん)を産んでいる。頼家の舅であり、一幡の外祖父である比企能員にとっては、頼家の独裁政治が望ましく、頼家の権力を掣肘(せいちゅう)しかねない宿老制の導入に能員が前向きだったはずがない。同様に、頼家の最側近と言われた梶原景時も発案者ではないだろう。

 

 一方で、源頼朝が病死し、比企能員が将軍・頼家と結合したことで、頼朝の舅であった北条時政の立場は不安定になった。既述の通り、親子で13人の宿老に入っているのは北条時政・義時だけである。それらの点に注目すると、13人宿老制の導入で最も得をするのは北条氏であるように思える。だが、宿老制が政権掌握を狙った北条氏の発案だったと即断するのは難しい。北条氏が多数派工作に成功する保証はどこにもないからだ。将軍・頼家と宿老たちの対立を前提とせず、13人宿老制を宿老たちが未熟な頼家を支える体制と捉えれば、特定の誰かを発案者と考える必要はない。

Q5 なぜ13人の宿老体制は機能しなかったのか?

 建久3年(1192)9月、北条義時は、源頼朝の斡旋(あっせん)により、比企朝宗(ひきともむね/頼朝の乳母・比企尼/ひきのあまの実子)の娘である姫の前と結婚した。頼朝の嫡男たる頼家の乳母夫は比企能員(比企尼の養子)であり、比企尼の二女(河越重頼室/かわごえしげより)・三女(平賀義信室/ひらがよしのぶ)も頼家の乳母となっていた。頼朝は、頼家の母方の叔父である義時と比企一族を結びつけることで、頼家の後ろ盾を強化しようとしたのだろう。

 

 けれども北条氏・比企氏・梶原氏といった源頼家支持勢力の結束は十分ではなく、頼朝の急死によって空中分解してしまう。

 

 そもそも御家人たちの結束は源頼朝のカリスマ性によって担保されていた。いや、頼朝とて己のカリスマ性のみによって御家人を統制できていたわけではない。頼朝は平家をはじめとする外敵の脅威を煽(あお)り、敵方所領を没収し恩賞として御家人たちに分け与えることで、彼らの攻撃性を外に向け結束を維持したのである。しかし戦乱が終結して外敵が消滅すると、御家人たちの不満は内側に向かう。頼朝ですら平家滅亡後は粛清を繰り返した。頼朝というカリスマを失った鎌倉幕府が内紛に見舞われるのは必然であり、「13人の合議制」によって派閥抗争を抑止するという考えそのものに無理があったと言えよう。

 

源頼家 2代鎌倉殿。18歳の若者は自身の意思とは関係なく御家人たちの権力争いに巻き込まれていく。国立国会図書館蔵

監修・文/呉座勇一

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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