「銀座」の名前の由来とは?
【江戸時代の貨幣制度 第2回】
日本屈指の繁華街で、数々の高額商品が取引される場所・銀座。同地は元来、江戸時代の通貨を製造する役所のひとつ「銀座」があった場所であった。

銀座2丁目に設置された銀座の碑。銀座の由来などが詳細に記されているが、足を止めて見る人は少ない。
皆さんがお住まいの地域にある商店街には、どんな名前がついているのだろうか? 全国の商店街の名称でダントツに多いのが「〇〇銀座」で、東京都内には本家の銀座だけでなく、砂町銀座、谷中銀座などがあり、戸越銀座にいたってはなんと駅名にまでなっている。これは、東京都中央区の日本を代表する繁華街「銀座」にあやかった命名であるが、では、銀座という名前はなぜついたのだろうか。
江戸の町に銀座ができたのは、江戸時代の初期までさかのぼる。慶長17年(1612)にそれまで駿河(するが)の府中にあった銀座をこの地に移したのである。
銀座というのは銀貨を鋳造する役所のこと。慶長6年(1601)伏見に、慶長11年(1606)には、徳川家康が江戸に移る前に住んでいた駿河の府中に銀座が設置された。駿河の府中にあった銀座が江戸に移転した後、伏見の銀座が京都に移され、大坂と長崎にも設けられて銀座は4つになったが、寛政12年(1800)からは江戸だけになり、明治2年(1869)に造幣局に吸収されて廃止となっている。
江戸時代は、金貨、銀貨、銅貨(銭)が通貨として使用されていたから、ほかにも金貨を鋳造する役所である金座、銭(銅貨)を鋳造(ちゅうぞう)する銭座(ぜにざ)も設けられていた。現在でも貨幣は造幣局、紙幣は印刷局として製造している場所が異なっているのと同じことである。
金座は、文禄4年(1595)に、江戸で彫金師の後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)が製造したのが始まり。その縁もあって金座は代々後藤家の支配となった。江戸以外にも駿河、京都、また金が産出されていた佐渡にも設けられたが、明治2年(1869)にやはり造幣局に吸収、廃止されている。なお、江戸の金座跡は、日本銀行の本店となっている。
銭座は寛永13年(1636)に江戸の芝と近江の坂本に設けられたのが最初。以後、有力な町人が幕府の許可を請けて製造する請負制で、幕府への運上金を納めることになっていた。また、銅を産出する藩では銭の鋳造を請け負うこともあったという。金座や銀座のように常設の機関ではなく、一定の期間だけ、設けられるものであったといい、大坂や秋田などに設置されていたこともある。
こうした、通貨の製造は為政者(いせいしゃ)にとって最も重要な行為といえるだろう。お金が足りなくなったからといってドンドン通貨を製造すれば、通貨の価値が低くなり、インフレを引き起こし、江戸時代であれは一揆などが頻発して、世の中が混乱しかねない。
これと同時に、贋金(がんきん)にも目を光らせなければならない。贋金が横行すれば市場経済が混乱し、世の中が不安定になるからだ。実際、第二次世界大戦時にナチス・ドイツが敵対するイギリスの通貨ポンドの偽札を発行し、市場にばら撒いたことからイギリスポンドの信用が失墜し、イギリスに大打撃を与えたということがあった。
江戸幕府では貨幣鋳造を厳重に管理した。とくに金座では、吹所と呼ばれた鋳造工場で作業する職人たちが、入退室の際にも厳重に管理されていた。どれぐらい厳重かというと、裸にされ、髪の中も金を持ち出さないように厳重に調べられたほどだったという。