「ポツダム宣言」に対して日本の最初の対応が”ノーコメント”だった真相とは?
今月の歴史人 Part.1
1945年8月15日。日本がポツダム宣言を受諾することにより太平洋戦争は終結した。しかし、実際にポツダム宣言が日本に向けて発表されたのは7月26日のこと。いったいなぜ、宣言発表から受諾まで一か月近くも間が空くことになってしまったのか? 今回は1ヵ月に渡ってのポツダム宣言を黙殺した日本の内情を紹介していく。
「拒否」として世界に伝えられた日本政府の発表、 その後の軍部との駆け引きとは

鈴木貫太郎首相 海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長など歴任。侍従長の時「君側の奸」と見なされ二・二六事件に遭うが九死に一生を得た。首相として御前会議を開く。(国立国会図書館蔵)
ポツダム宣言より遡ること昭和20年(1945)6月8日、日本では御前会議の場において、「戦争の完遂」の方針が決定されていた。
しかし、その後、戦力が決定的に衰退している実情を知らされた昭和天皇は、戦争終結への意思を強くされる。
こうして6月22日、最高戦争指導会議が開催され、この席上において昭和天皇は「戦争終結についての具体的研究の必要性」に関して述べられた。
国民には「一億玉砕」「最後の一兵まで」などと説いていた日本も、水面下では和平工作の進展を模索していたのである。
その和平の仲介役には、ソ連が選ばれていた。そんな日本に向けられたのが、7月26日のポツダム宣言の発表だった。
日本政府は宣言の内容を速やかに翻訳。そのうえで対応を協議した。昭和天皇は外務大臣の東郷茂徳に対し、
「これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。原則として受諾するほかはないだろう」と語られた。
だが、外務省は「まだ交渉の余地はある」「黙っているのが賢明」として、受諾ではなく「黙殺」の態度をとることにした。
東郷外相はポツダム宣言が「日本の無条件降伏」ではなく「全日本軍隊の無条件降伏」とある点を考慮し、 ポツダム宣言に参加していないソ連を仲介者とする和平交渉をさらに進め、より日本が有利となる条件を引き出すことを考慮したのである。
その結果、日本政府は、ポツダム宣言への回答を引き延ばし、その間に仲介の依頼をしていたソ連の返答を待つことに決めたのであった。
鈴木首相の7月28日の会見 黙殺が「拒否」と世界に伝わる
一方、ポツダム宣言に対して最も強い反対の姿勢を示したのは、国内の新聞各紙であった。
毎日新聞は「笑止」「自惚れを撃砕せん」といった言葉で戦争の継続を煽った。読売新聞は「戦争完遂に邁進、帝国政府問題とせず」と綴った。
また、陸海軍も外務省の「引き延ばし」「黙殺」の態度を非難。豊田副武軍令部総長は、「この宣言は不都合なものであるという大号令を発する必要がある」と7月27日の閣議で主張した。
陸軍からも政府に対し、「宣言を無視することを公式に表明するべき」という要求がなされた。
こうした陸海軍の声はあったものの、東郷外相の説得により、政府は 「ポツダム宣言に関する意思表示をしない」ことを決定した。

東郷茂徳 第1次大戦後の対独使節団の一員の体験から敗戦により受ける刑罰は仕方ないが、程度が問題で、致命的条件を課せられないためにも、 国力が消耗されない間に終戦を必要と考えた。
ところが、首相の鈴木貫太郎は、7月28日に行われた記者会見の場でポツダム宣言について問われた際、「政府としてはなんら重大な価値があるものとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」と答えてしまった。
この「黙殺」という日本語は、日本の同盟通信社では「ignore」と訳されたが、海外のロイタ ーやAP通信などは「reject (拒否)」という単語を使って大々的に報じた。
日本の「黙殺」という「ノーコメント」の意味で用いた表現は、「拒否」として国際社会に広がってしまったのである。
鈴木首相は、この自身の発言を悔やんだ。
回想記『終戦の表情』には、「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点」と綴られている。
アメリカのトルーマンは、思い通りの結果になったことを喜んだ。こうしてアメリカは、原子爆弾投下への道を予定通り歩んでいくことになる。
かたやソ連は日本からの仲介依頼をはぐらかしつつ、対日参戦への準備を着実に進めていた。ソ連はすでに1945年2月、アメリカ、イギリスと対日参戦に関する密約を結んでいたのである。
クリミア半島のヤルタの地で結ばれたこの密約において、「ソ連はドイツ降伏3カ月後以内に対日参戦する」と決定していたのだった。

終戦の詔書の国務大臣署名欄
「終戦の詔書」は、前日の閣議において決定された署名。阿南は後の自決の前に「米内を斬れ」と語っているように、絶対主義天皇制を信じる阿南は、本土決戦の混乱による共産主義革命を恐れ、早期に降伏し、天皇機関説 に則って機関としてだけでも天皇制を残そうと画策していた米内を不忠であると思い至った、と推測されている。 (国立公文書館蔵)
監修・文/早坂隆