終戦記念日前に振り返る「日本国憲法の成り立ち」
いま「学び直し」たい歴史
日米開戦80年目の2021年。80年前の8月に日本は敗戦した。その後作成された現在の日本国憲法は「民主的かつ平和的」と評価する声がある一方で、連合国総司令部からの押し付けで「国民不在」のまま決められた憲法だったという声も根強く存在する。はたしてその誕生の経緯はどのようなものだったのか──。(歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.6「GHQはどのように日本を占領したのか?」 より)
「戦争放棄、主権在民、象徴天皇──」
ポツダム宣言受諾、総司令部案の作成から
新憲法施行まで、その成立過程の舞台裏を徹底追跡!

日本国憲法の3大原則1945年7月26日、日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求める『ポツダム宣言』を発表。そこには「軍国主義の駆逐」「基本的人権の尊重」など、後の日本国憲法の3大原則のエッセンスが含まれていた。「あたらしい憲法のはなし」国立国会図書館蔵
『ポツダム宣言』の受諾と帝国憲法改正の始動
わが国が『ポツダム宣言』を受け入れ、連合国との終戦を決定した昭和20年(1945)8月14日。日本国憲法の成立(形式的にいえば大日本帝国憲法の改正)は、その時すでに始まっていたといっていい。『ポツダム宣言』は、同年7月26日、米国大統領(トルーマン)、中華民国政府主席(蒋介石[しょうかいせき])および英国首相(チャーチル)の名前で発せられた。同宣言には、以下の内容などが記されていた。
①軍国主義の駆逐
②民主主義的傾向の復活強化
③表現・宗教・思想の自由など基本的人権の尊重の確立
④責任ある政府の樹立
⑤全日本軍の無条件降伏
⑥上記以外の選択は日本国の迅速かつ完全な壊滅のみを導くこと
この宣言の受諾は、宣言の文言にあるように、全日本軍の無条件降伏(日本国に対しては「条件付き」であって無条件降伏ではない)を意味した。そのときの鈴木貫太郎(かんたろう)首相は、記者会見で同宣言を「黙殺する」と語った。この「黙殺」発言が連合国に「拒絶」と受け取られ、広島(8月6日)、長崎(8月9日)に相次いで原爆が投下されるという結果を招いた。
そして、8月14日、日本国政府は、『ポツダム宣言』の受諾を通告した。翌15日には、天皇の「玉音(ぎょくおん)放送」がなされた。
連合国最高司令官に任じられたマッカーサー元帥は、8月30日、厚木基地に降り立ち、日本国占領のための第一歩を踏みしめた。
9月2日、東京湾に浮かぶ米艦艇ミズーリ号の甲板上で、降伏文書の調印式が行われた。ここに日本国が連合国に降伏したことが、国際法上、宣言されたのである。
米国の対日占領政策の目的は、日本国が再び米国と世界の平和および安全にとって脅威とならないように保障することだった。そしてアメリカ本国政府はマッカーサーに対して、日本国が軍国主義および超国家主義にならないようにすること、日本国の非武装化・非軍事化を推進すること、民主主義的傾向の強化に向けて、努力することを命じた。
連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、これらを実行するに当たり、大日本帝国憲法の改正を当然のこととして考えていた。
一方で、日本国政府は『ポツダム宣言』を受諾しても、必ずしも大日本帝国憲法を改正しなければならないとは考えていなかった。
両者のへだたりは、当初から顕著であった。しかし新たに登場した“絶対君主”ともいうべきマッカーサーは、その絶大な権力を背景に憲法改正と向き合ったのである。
監修・文/西 修
[『歴史人』電子版]
歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.6
「GHQはどのように日本を占領したのか?」
“歴史の魅力を全力で伝えるエンタメマガジン”をテーマとした月刊誌『歴史人』編集部が歴史の“学び直し”をキーワードに、テーマごとに記事をまとめた電子コンテンツシリーズ第6弾。
日米開戦80年目を迎える本年、改めて戦後のアメリカを中心とする連合国軍GHQの占領政策がいかなるものだったのかをはじめ、新日本国憲法の作成の実態や日本の行方を決める大きな分岐点となった昭和天皇とマッカーサーの会見の真実を解説。
現代を生きる日本人の精神にも影響したGHQの政策の全過程を徹底検証。会見では何が話されたのか? 占領政策の功績と罪、日本国憲法はどのようにして作られたのか? に迫っていく。