幕末に佐賀藩が導入していたイギリス発の高性能な大砲とは?
第1回「歴史人検定」練習問題③
19世紀半ば以降、日本にヨーロッパの艦船が来航するようになると、諸藩や幕府は当時の最新兵器である大砲を導入するようになっていく。佐賀藩が導入していたイギリス発の大砲は、そのなかでも優れた性能で知られていた。
Q.佐賀藩が導入していたイギリスで開発された大砲として正しいのはどれか?
1.アームストロング砲
2.セーカー砲
3.カルバリン砲
4.フランキ砲
日本に鉄砲が伝わったのが戦国時代であるというのはよく知られているが、実は、鉄砲と同時に大砲も伝わっていた。大砲とは、火薬の爆発力を利用して砲丸を発射する兵器のことをいう。なお、大砲の構造としては、鉄砲のような小銃のそれと大きくは変わらない。小銃に比して口径が大きいため大砲と呼ばれているわけである。
大砲が発明されたのは、12世紀後半の中国とされる。宋が元との戦いに導入した「突火槍」と呼ばれる火器が大砲の原型という。その後、ヨーロッパにおいて大砲は進化し、15世紀には青銅製の大砲が作られている。
日本で最初に大砲を用いたのは、豊後の戦国大名大友宗麟(おおともそうりん)であったらしい。キリシタン大名として知られる大友宗麟はポルトガルからフランキ砲を輸入し、「国崩し」と呼んでいた。フランキ砲は、16世紀のヨーロッパで盛んにつくられた青銅製の大砲で、ポルトガル人がフランキ、すなわちフランク人とも呼ばれていたことにちなむ。日本に伝わったフランキ砲は、ポルトガルの統治下にあったインドのゴアで鋳造されたと考えられている。
フランキ砲は、砲身のある母砲の後ろから砲弾を装填する後装砲で、火薬を詰める子砲を母砲に装填した。そのため、一度発射すると子砲を取り外さなければならないという不便さがあった。また、子砲が母砲に確実に装填されなければ暴発する可能性もあった。そのため、フランキ砲が、戦国時代の日本において、広く普及することはなかった。
大砲が日本の合戦に大量投入されるようになるのは、江戸時代に入ってからのことである。その頃には、オランダやイギリスが砲口から砲弾を込める前装砲のカノン砲を持ち込んでおり、慶長19年(1614)から始まる大坂の陣では、徳川家康が、オランダやイギリスから前装砲のカルバリン砲やセーカー砲を購入している。
大坂の陣では、徳川方の砲撃により大坂城にいた淀殿の侍女が死傷して、それが講和につながった。おそらく徳川方は、購入したカルバリン砲やセーカー砲を大坂城攻撃に用いていたものと考えられる。
戦国時代の日本では、敵の侵攻を防ぐため街道が整備されていなかった。そのため、大砲の運搬は難しく、また、発射の角度も台座に固定したら簡単に変えることができない。火縄銃に比べて破壊力には優れていたが、実用面から攻城兵器として用いられたケースは限定的だったとみられる。それゆえ鉄砲ほどには普及しないまま、戦国時代の終焉を迎えたのだった。そして、泰平の世を迎えた江戸時代において、日本で大砲が使われることもなかったのである。
一方、そのころのヨーロッパにおいては、大砲を主戦力とした戦争が行われるようになっていた。当然のことながら、大砲は飛躍的に進化していたわけである。砲弾も、着弾したときに破裂する榴弾が採用されており、戦国時代の日本で使われていた大砲とは、破壊力も格段に強まっていた。
19世紀半ば以降、日本にヨーロッパの艦船が来航するようになると、否が応でも、そうした大砲を目の当たりにするようになる。そうした状況のなか、幕府や諸藩でも、大砲を導入するようになった。
日本で導入された大砲には、輸入されたものもあれば、反射炉を建造して大砲を生産していたものもある。そのため、射程・精度・発射速度などの性能については、玉石混交だったといってよい。なかでも、佐賀藩が導入していたアームストロング砲は、その性能が高く評価されていた。

幕末に佐賀藩が自藩で製造していたとされるカノン砲の複製。佐賀城(佐賀県佐賀市)の本丸歴史館内に展示されている。
アームストロング砲は、19世紀半ばにイギリスで開発されたアームストロング社の大砲で、砲身内に施条(しじょう)しているため、砲弾の命中精度が格段に上がっていた。佐賀藩では国内製造していたともいうが、確かなことは不明である。いずれにしても、佐賀藩のアームストロング砲は上野戦争や会津戦争でも使用されており、新政府軍の勝利に一役買ったとみられている。
5月21日(土)・5月22日(日)開催「歴史人検定 第1回」練習問題より