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長州藩が外国艦隊の砲撃を避けるために藩庁を移した場所とは?

第1回「歴史人検定」練習問題②


長州藩13代藩主である毛利敬親は、それまで居城としてきた萩城から、ある事情により藩庁を別の場所へ移した。約260年ものあいだ藩政の中心となっていた萩から、どうして別の場所へ移ることになったのだろうか?


Q.長州藩が外国艦隊の砲撃を避けるため、藩庁を萩から移した先はどこか?

 

1.下関

 

2.津和野

 

3.岩国

 

4.山口

 

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元(もうりてるもと)は、112万石から大幅に削減されて、周防・長門369000石に転封となる。これにともない、それまでの居城であった広島城を失った毛利氏は、新たな居城を選ばなくてはならなくなった。

 

 このとき、毛利氏は萩・山口・防府の3か所を築城候補地として幕府に奏請しており、そのなかから萩が選ばれている。それは幕府の指示であるから、毛利氏には逆らうことはできなかった。慶長9年(1604)、毛利輝元は萩に新たな城を築く。そして、隠居を命じられた輝元の子秀就(ひでなり)が初代長州藩主となり、以来、萩城は長州藩主毛利氏の居城となったのである。

政庁として長州藩の中心を担った萩城址。現在は石垣や堀のみが残り、城跡は指月公園として整備されいる。

 それからちょうど260年がたった元治元年(1864)、13代藩主毛利敬親が居城を萩から山口に移した。どうしてわざわざ萩から山口に移ることになったのか、時間を少しさかのぼりながらみていくことにしよう。

 

 ペリー来航後、安政5年(1858)にアメリカとの間に修好通商条約を結んだ幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んでいた。これがいわゆる安政の五か国条約である。修好通商条約は、それまでの和親条約と異なり、単に友好関係の構築を図るものではなく、開港することによって貿易を促進するものであった。これが、日本に有利な条約で、日本人の生活が豊かになったのであれば、不満は生じなかったであろう。しかし、開港したことにより物価が高騰するなど経済は混乱し、人々の生活にも影響を及ぼすことになったのである。

 

 こうした社会状況のなか、文久3年(18633月に上洛した14代将軍徳川家茂に対し、孝明天皇は攘夷の実行を迫った。これに対し、家茂は510日を期しての攘夷実行を約束している。攘夷とは、簡単に言えば外国を排斥することである。ただ、一言で攘夷といっても、その形態は一様ではない。家茂は鎖港や条約の再交渉を念頭においていたが、長州藩では外国船への砲撃を含む積極的な武力行使を計画したのだった。将軍徳川家茂が朝廷に約束した510日当日、長州藩は馬関海峡(現在の関門海峡)を封鎖すると、アメリカ・フランス・オランダの艦船に砲撃を加えたのである。

 

 ただし、武力行使を伴う積極的な攘夷については批判も多く、文久3年(1863818日には、いわゆる八月十八日の政変により、長州藩は会津藩や薩摩藩によって朝廷から締め出され、藩主の毛利敬親(もうりたかちか)は処罰を受けることになった。

 

 これに対し、翌元治元年(18647月、長州藩のなかでも攘夷を強く主張していた国司親相くにしちかすけ)・益田親施(ますだちかのぶ)・福原元僴(ふくばらもとたけ)ら三家老は、藩主の冤罪を帝に訴えると称し、兵を率いて上洛したが、会津・桑名藩を主力とする幕府側に敗れ、朝敵とされてしまう。これがいわゆる禁門の変であり、ほどなく朝廷からは幕府に対し、長州征討の勅命がくだった。

 

 そのころ、長州藩は、前年に攘夷を実行した砲撃の報復を受けていた。先にふれたように、長州藩は徳川家茂(とくがわいえもち)の約束した攘夷実行に合わせ、馬関海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの艦船に砲撃していたが、これにイギリスを加えた四か国の艦隊が下関を攻撃したのだった。その結果、下関一帯に築いていた長州藩の砲台は、上陸した艦隊の兵によってすべて占拠されてしまったのである。

 

 こうした状況のなか、毛利敬親は完成したばかりの山口城に入った。長州藩では山口屋形、すなわち居館であるとしていたが、実質的な城であったことは言うまでもない。移転の表向きの理由は、攘夷を実行するための指揮を領国の中央部から行うためということであったが、実際には艦砲射撃を防ぐことと、幕府との戦争を想定していたことが考えられる。

 

 四か国の艦隊との馬関戦争に敗れたうえ、幕府による征討を受けた長州藩では攘夷派の地位が低下していく。そこで、長州藩は禁門の変を主導した三家老が切腹し、毛利敬親が山口城を破却して萩に戻ることで和睦したのだった。

 

 なおその後、長州藩では幕府への降伏に不満を抱く藩士が政権を握ったことで、幕府から二度目の追討を受けることになる。これが第二次長州征討で、このとき、山口城は毛利敬親によって再興され、以後、長州藩の藩庁は山口に置かれることになった。

 

5月21日(土)・522日(日)開催「歴史人検定 第1回」練習問題より

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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