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日本軍の4倍以上の兵力でアメリカ軍がアッツ島に上陸。激しい抵抗もむなしく日本軍は玉砕!

太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦  第6回

アッツ島に上陸したアメリカ軍。兵数だけでなく、兵器の質量ともに日本軍守備隊のそれを圧倒していた。圧倒的戦力ですぐに制圧できると考えていたアメリカ側は、予想を超える頑強な日本軍の抵抗に悩まされてしまう。

 

 昭和18年(1943)5月12日、日本陸軍が占領していたアッツ島に、約1万1000名のアメリカ軍が上陸を開始した。このアッツ島と海軍が占領したキスカ島は、アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島に属する、れっきとしたアメリカの領土だ。自国の領土を占領されたままにしておけば、国民の士気にも関わる。そのためアメリカは、戦略的に重要でない北海の小島に大軍を派遣したのだ。

 

 対する日本軍守備隊は、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍大佐率いる約2400名の兵力であった。その戦いの様子は、キスカ島に駐屯していた海軍部隊の通信隊が把握していた。キスカ通信隊ではアッツ島から送られてくる味方の通信はもとより、上陸部隊とアメリカ艦隊との通信、ダッチハーバー基地とのやりとり、アラスカからアリューシャン海域にかけての米艦隊の通信、さらにはダッジハーバーのラジオ放送などを傍受。それにより米軍の作戦行動を推定し、大本営や連合艦隊に知らせていた。

 

 それらの情報を総合すると、米軍は圧倒的な兵力であると知れた。だが上陸した後、日本軍守備隊による予想外の猛反撃と険阻な地形、さらに濃霧のために苦戦している。それを米軍は平文の電報で送っていた。

 

「日本軍は高射砲を使い水平砲撃を行っている。我が軍の死傷多く迫撃不可。増援求む」

 

「濃霧のために進軍できず。回復を待つ」

 

 といった悲痛な内容が多かった。

 

 米軍は旭湾中浜に水上機基地を設置し、頻繁に水上機を発着させているようだ。キスカ島外信傍受班では、米空軍が使う電波の暗号解読に成功。アッツ島から発せられた飛行機からの電報が多くなったことから、こう判断したのである。

 

 14日になると「北海湾芝台陣地、我が方損害大きく陣地を放棄し交代せり」という知らせが入電した。米軍の上陸から2日ほど経つと艦砲射撃、水上機による爆撃、そして地上軍の砲撃により、維持できない陣地が出てき始めたのだ。しかし米軍側も、芝台陣地を奪取しても霧のために進軍できず、海岸からわずか1kmほど進出しただけであった。

 

 小野打(おのうち)は戦後、アッツ島攻略部隊総指揮官キンケード提督が、上陸軍司令官ブラウン少将の弱腰に業を煮やし更迭を決意。本土からランドラム少将を呼び寄せた事を知った。

 

山崎保代陸軍大佐は昭和18年(1943)2月、北海守備大地区隊長に任命されアッツ島に着任。水際防衛ではなく島の内部や高地に陣を構築し、米軍に多大な出血を強いた。後にペリュリュー島や硫黄島での戦いに用いられた。

 一方、大本営へは5月12日の15時頃、アッツ島への米軍上陸の報がもたらされた。すぐさま連合艦隊司令部には、本州北部への空襲に警戒するよう命令が下された。同時に陸軍部隊をアッツ島に動員し、同島を確保することが確認されている。

 

 だが連合艦隊司令部では航空、水上いずれの部隊も現状からして、陸軍部隊の輸送は困難と判断。大本営では救援方法の研究がなされたが、アッツ島周辺の米艦隊や航空部隊を撃破して援軍を送るのは不可能となり、アッツ島守備隊は見捨てられることとなった。こうした悲壮な事情を、小野打らキスカ島の通信隊は逐一知ることとなる。

 

 陸軍舞台の通信を支援するため、アッツ島に派遣される10人の中に、当初は小野打も入っていたのだ。ちょうど米軍の電波傍受の任に就いていたため、同年兵の堀江兵長が代わりにアッツ島へ向かったというのは、すでに触れたとおり。それだけに小野打は断腸の思いであったと、後に書き記している。

 

 5月21日になるとキスカ通信隊に、アッツ島放棄が正式に決定された旨を告げる電報が入った。これをアッツ島に伝えなければならない。そこには捕虜になることなく、暗に玉砕することが命じられているのだ。すでにそのことを覚悟していた山崎大佐は、

 

「弾薬が尽きるまで残存兵士を率い、一日でも長くアッツを保持す。天皇陛下万歳」

 

という電報を送ってきている。

 

「これより総攻撃。電信機破壊」

 

 5月29日に入電したこの通信を最後に、アッツ島からの電報は途絶えた。そのため、山崎部隊長以下残存兵士らの最期の様子は分からなかったが、戦後明らかになった米軍の記録によれば次のような様子であった。

 

 残存の部下を率いた山崎大佐は、夜陰に紛れて平地に集中していた米軍陣地に、最大の万歳突撃を敢行。5月29日深夜3時30分のことであった。この猛烈な突撃により、米軍戦闘司令所が2カ所突破され、アメリカ側も兵士だけでなくフィッシュ中佐が戦死。だが援軍を繰り出した米軍は、日本軍の突撃を食い止めた。進退が極まった残存日本軍は、手榴弾で自決したのであった。

 

 こうしてアッツ島は、太平洋戦争初の玉砕の島となった。それによりアッツよりもアメリカ本土に近い位置にあるキスカ島は、完全に孤立したのである。まさに蟻の出る隙間もないほど米艦隊に包囲され、物資の補給もままならなくなった。キスカ島の運命は、文字通り風前の灯火となってしまったのである。

 

現地部隊が使用していたアッツ島の地図。

 

※文中の敬称略。

小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。文中の日付は小野打氏の記憶を元にしているため、記録されているものと差異がある場合もあります。地名は当時の日本軍が名付けたものです。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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