撤退作戦のキーマン 海軍通信兵・小野打数重の足跡とは?
太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦 第1回

初めて背広を着た小野打数重氏。昭和13年に大阪工学校を卒業し、父親の経営する鉄工所の手伝いをしつつ、地区青年団の中堅としてさまざまな行事を行なっていた頃の写真。
「|・・||」。
小野打数重(おのうちかずしげ)のレシーバーには、日本海軍特有の電波音色で「ユ」の3回連送が、はっきりと入ってきた。これは救出艦隊の入港予定時刻を「4時間繰り上げる」と伝えているのだ。
艦隊は確かにキスカ島の近くにまで来ている! それは送られてきた電報の、感度の良さからわかった。小野打は自信を持って受信紙に書き込んだ。
「ユ・ユ・ユ・一八・七・二九・〇九〇〇」
第2次大戦中、敵国アメリカから「パーフェクト・ゲーム」と賞賛された作戦。それは昭和18年(1943)7月29日に行なわれた、キスカ島撤退作戦だ。敵に包囲された孤島から、5千200名の陸海軍将兵全員を無事に撤収させた作戦は、よく“奇跡の作戦”と言われる。
数年前、この作戦によりキスカ島からの生還を果たした、元日本海軍通信兵の小野打数重氏に、何度かお話を伺う機会を得た。そこで知り得た小野打氏の足跡と、キスカ島撤退作戦をまとめてみたい。
小野打は大正9年(1920)4月20日、京都府紀伊郡伏見町(現在の京都市伏見区)で生まれた。母は未婚であり、後に数重を連れて結婚した小野打喜一は、伏見で鉄工所を経営する実業家であった。その父は数重が小学校高学年になると学習雑誌を買い与えてくれたため、成績はメキメキと上昇。卒業の時には卒業生代表として、答辞を読むまでになる。
学校側の勧めにもかかわらず、父の「工場で仕事する者に学問は不要」という考えに従い、中学進学を諦め高等小学校へ進んだ。後に数重は「中学に進学していたら、その後の人生は大きく違っただろう」と述懐している。

小野打氏が最初に配属された舞鶴には、明治34年(1901)に舞鶴鎮守府が創設され、海軍により赤煉瓦の倉庫が建てられた。現在では国の重要文化財に指定されており、「舞鶴赤れんがパーク」として活用されている。
昭和15年(1940)8月、数重は徴兵検査を受け第一乙種(おつしゅ)合格し、現役招集となる。徴兵期間は陸軍が2年、海軍は3年。検査の段階では、どちらに招集されるかは分からない。
1カ月後に「昭和16年1月10日 舞鶴海兵団に入団すべし」という徴兵令書が届く。昭和16年(1941)1月9日の早朝、小野打ら新規入隊者を乗せた列車は、京都駅を後にした。
東舞鶴駅に到着すると、駅前に設置されていた受付所に案内された。下士官に指示されるまま、指定された場所で到着の報告を済ませトラックに分乗。トラックは、一軒の旅館前で停車する。引率の下士官に「明朝までこの旅館に宿泊。本日は夕方5時に大広間に集合」と言われた。5時に大広間に向かうとプリントが渡され、引率の下士官が読み上げた。
「明日は5時に起床、6時朝食。7時には迎えのトラックに乗車、8時に海兵団に入る。そこで支給された服に着替えること。着ていた服はすべて付添いの者に渡すように」
翌朝、言われた通りに行動し、付添いの父親に風呂敷包みを渡し、初めて感謝を込めた別れの挨拶を交わす。その刹那、家には二度と帰れないのではないか、という思いがこみ上げてきて、目頭が熱くなった。
客人扱いは1日で終わり、翌朝からは教育を受ける班の長となる教班長から、いきなり怒鳴られる。さらにモタモタしていると、竹の棒で尻や背中を打擲(ちょうちゃく)された。初日は重たい帆布(はんぷ)を丸めたもので、一直線になりひたすら床を磨く。ひとりでも遅れると竹の棒の洗礼を受ける。とにかくこれはキツかった。
2日目には算数、国語、英語の試験が行なわれた。小野打はどれも80点以上の得点を修めている。試験日の午後は面接で、人事を担当する兵曹長から「電信兵はどうか?」と聞かれるが、即答はできなかった。
そして3日目には視力や聴力、反応力や持久力といったさまざまな適正検査を実施。それらの結果で新兵は一般水兵、信号兵、電信兵、航空兵に振り分けられる。小野打は正式に電信兵へ配属されることとなった。
電信兵候補となると、陸戦訓練やカッター漕ぎなどの海兵としての教育は、一般水兵の半分の2か月で習得。その後は横須賀の通信学校に移り、専門教育を受ける。これを機に、分隊は電信兵候補ばかりという編成となり、新兵教育が本格的に始まった。
(続く)
※文中の敬称略。小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。