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鎌倉期には下剋上が日本を席巻! 伊豆半島にも風雲急が告げられる


鎌倉時代の海賊衆にとって、天然の良港に恵まれた西伊豆は、オアシス的な存在であった。この海を生活の基盤としていた海賊衆は、やがて武士たちによる勢力争いに巻き込まれていく。初代北条氏である北条早雲との、運命的な出会いを迎えるのであった。


 

伊豆を制圧した駿河国の興国寺城主・北条早雲

現在の伊豆市土肥八木沢にある丸山城の本丸跡。土肥高谷城主であった富永氏の支城のひとつ。富永氏は北条早雲の伊豆進攻にいち早く従い、その後は北条水軍の中核を担った。

 志摩半島沖から御前崎沖にかけては、遠州灘と呼ばれる海の難所である。ここは外洋から押し寄せるうねりが、つねに白い波濤を立て、獲物となる船を待ち構えている。しかも遠州灘の沿岸は砂丘地帯が多く、港らしい港もない。寄港できる港といえば、天竜川や太田川、菊川の河口港ぐらいであった。

 

 だが御前崎を越えて駿河湾に入れば、波が穏やかな入江が待っている。船乗りたちはここで緊張から解き放たれたであろう。もっとも御前崎から南伊豆の妻良(めら)や子浦(こうら)の港まで、最短距離を横断する方が、航海日数を大幅に減らせそうにも思える。しかしこのコースは、当時の船にとっては遠州灘よりもはるかに危険であった。そのため駿河湾内の海岸線に沿って、船を進めるのが定石だったのだ。

 

 遠江から駿河にかけての沿岸部も、良港と呼べる港は清水くらいしかない。その点は遠州灘と大きく違わない。だが伊豆半島の西海岸は、大小の入江が連続していて、船を休ませるのに最適な海域であった。従って東西の海を往来する船は、ほとんどが西伊豆の港に寄港したようだ。港の背後には緑が濃い山が聳(そび)えているので、乗組員の目も休ませてくれる、文字通りオアシスであった。

 

 こうした浦々は、古くから海賊衆の根拠地でもあった。海賊といっても、海を生活基盤とした土豪集団である。彼らは伊豆に配流された源頼朝が挙兵をした際、その下に参陣している。そこには土肥氏、宇佐美氏、網代氏、中氏といった名があった。土肥氏は現在の神奈川県湯河原町、宇佐美氏は静岡県伊東市、網代氏は同熱海市、中氏は同松崎町を根拠地とした海辺の土豪である。石橋山の合戦で大敗した頼朝を、船で安房(千葉県)に逃すことができたのも、彼ら伊豆の海賊衆が味方していたからに他ならない。

 

 その後、頼朝により武士政権が樹立されると、下層階級の民衆たちは生活環境が向上する事を期待した。しかし現実の生活は苦しいまま取り残されてしまう。彼らは有力武士の郎党になるか、名主の下でわずかな耕地を持ち、家族だけで細々と暮らした。土地を持たない海の民は、漁労で生活をたてた。

 

 こうした下級武士や農民、漁民は、いざ戦となれば有力な武士の傭兵となり合戦に参加、謝礼を得ることで生活の足しにした。こうして誕生した新しい階層のうち、陸戦を行なう集団は「足軽」と称されたのだ。彼らはそれまでの武士の戦い方には従わず、集団で襲いかかる足軽戦法を用いた。

 

 そして鎌倉幕府の支配力が弱くなってきた14世紀、足軽や海賊らは各地で年貢の軽減などを求めて決起する。時として荘園の年貢を横領したりすることもあった。このように体制に従わない勢力ということから、彼らは「悪党」とも呼ばれたのである。

 

『雑兵物語』に登場する足軽。彼らはお互いに名乗りを挙げ、一対一で戦うそれまでの合戦はせず、多数で一騎の騎馬武者を包囲する集団戦や、馬の脚を払って相手の落馬を誘うという、ある意味“卑怯な”戦い方をした。(国立国会図書館蔵)

 そんな時代、伊豆の海賊衆は難所として恐れられていた石廊崎周辺の海を熟知していたので、ここを通行する船の水先案内人を務めていた。その際の通行料金や謝礼が、彼らの重要な収入源となっていたのだ。大小の入江が続く西伊豆の海岸線にある岬の先端には、海賊たちの城砦や物見台が置かれていた。規模はけして大きくはないが、土塁や堀、曲輪が整えられていた。さらに武装船が停泊できる船隠し(船着場)も用意され、いつでも出航できる体勢であったことから、航行する船は大いに威圧された。

 

 金を払わない船があれば、海賊たる本領を発揮して城から出撃し、積み荷などを強奪する。だがそれはほとんど起こらなかったようだ。船の側からすれば、いくばくかの謝礼を支払うことで、安全な航海が保障されるのならば、その方が得策だったからである。

 

 時は流れ、鎌倉幕府に代わり足利幕府が誕生。しかし応仁元年(1467)から文明9年(1477)にかけ、京の都を舞台に繰り広げられた応仁の乱により、その権威はすっかり失墜してしまう。全国に下剋上の風潮が広まり、荘園や公領では年貢の徴集が難しくなってしまう。守護や地頭に代わり、下級武士や農民らが土地を支配するようになった。

 

 伊豆半島の入江に勢力を張っていた海賊衆も、海辺の村を基盤とした小領主として新たな支配体制を築いていった。海を望む岬の高台に築かれた城は、普段の生活には不便であったので、平時においては城主、城兵とも村に住むようになる。こうして領主を中心とした、強固なつながりが生まれていった。

 

 延徳3年(1491)、足利将軍家の一族で初代堀越公方であった足利政知(まさとも)が病死すると、堀越公方の後継者争いが起こった。こうして伊豆国中が騒然となる中、ひとりの武将が登場する。駿河国の興国寺城主・北条早雲(伊勢新九郎)である。

 

 伊豆の国盗りを画策していた早雲は、密かに修善寺温泉へ湯治に赴き、伊豆の地形や民情を調べたと『北条五代記』にある。伊豆国内が混乱した事は、早雲にとって千載一遇の好機であった。早雲は主筋に当たる今川氏親から300の兵を借り、自らの手勢200とともに清水港に用意した10艘の船に分乗した。

 

 早朝に清水を出航した早雲の軍船は、駿河湾を一気に横断。昼頃に西伊豆の海岸に到達した。早雲は軍を分け松崎、仁科、田子、安良里の港に上陸させた。この時、伊豆の地侍たちは山内上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉定正(さだまさ)との抗争に駆り出され、地元には少数の兵しか残っていなかったという。彼らは早雲の軍を海賊の襲来と思い、抵抗せず山中に逃げたというのだ。そのため早雲の軍は、難なく西伊豆を制圧できたと『北条五代記』は伝えている。

 

 だが同書には、いち早く早雲に味方した地侍の存在も記されている。用意周到な戦略家であった早雲は、生涯を通じて勝算のない戦いをしない武将であった。しかも事前に伊豆国内の情報を収集していた点から考えれば、早雲は最初から伊豆の海賊衆の合力を取り付けていて、彼らが早雲軍を手引きし、伊豆制圧を成功させたと考えるのが自然だろう。

 

 その後、伊豆の海賊衆は北条軍団の中でも精鋭を謳われた「南方勢」の中心を占めている。そんな精強な伊豆の海賊衆が、たとえ寡勢であっても敵襲を受けた際、一戦も交えずに逃げ出すはずがない。

 

 こうして北条軍団の一翼を担うこととなった伊豆の海賊衆。その頃、世の中は麻のごとく乱れ、力ある者だけが生き残る時代となり、伊豆海賊衆の真価が発揮されていった。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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