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離島の独立国家を樹立した源為朝。その影に伊豆の海賊衆あり!


10世紀頃、朝廷の力が弱くなってくると、平将門や藤原純友(ふじわらのすみとも)に代表される地方豪族の反乱が起こった。それは武士が力を蓄えるきっかけとなり、次の時代の扉を開く。そして伊豆諸島で独自の国を築いた源為朝(みなもとのためとも)が登場する。その躍進を影で支えたのが、伊豆の海賊衆なのだ。


 

季節風を手の内にいれれば伊豆から伊勢まではわずか一日

源為朝 保延5年(1139)〜嘉応2年(1170) 源為義の八男として生まれた為朝は、幼少の頃から剛勇で弓術に長じていた。13歳になると父の不興を買い九州へ追われた。その地で勢力を張ったことで、鎮西八郎とも呼ばれた。

 10世紀頃になると、京都の朝廷は次第に弱体化していった。地方の豪族を力で抑え込むことが困難になってしまったことから、ほぼ同時期に日本の東西で大規模な反乱が勃発している。一時期は関東一円を支配下に置き、自ら「新皇」と名乗った平将門と、瀬戸内海で海賊の大集団を組織し、千余艘(そう)の船団を率いて京都を目指した藤原純友である。

 

 両者は連携して反乱を起こしたという説があるが、その真偽は定かではない。ただ純友の行動をみると、将門の動向に関する情報を逐一掴んでいたフシがある。両者の連絡を可能としたのが、東西の海賊衆の存在だ。純友が麾下(きか)の瀬戸内海賊衆を使ったのはもちろんのこと、将門側にも東国の海賊衆が付いていたと思われる。

 

 さらに両者の間に勢力を張っていた伊豆、志摩、熊野の海賊衆も、媒介者となったと考えられる。というのも黒潮圏で生活している人々は、昔から東西の海を行き来していたため、海で生きる者同士、強い同族意識で結ばれていたからだ。

 

 そして海上では、黒潮の流れや季節風を捉えることで、陸の何倍も早く移動することができる。自然、遠く離れた場所を根城にしている海賊同士でも、すぐ近所という感覚があった。加えて海賊衆には「中央政府の命に従わない」という共通点もある。

 

 だが天慶3年(940)2月、将門は油断していたところを平貞盛(さだもり)、藤原秀郷(ひでさと)の軍に敗れ将門も戦死する。彼が打ち立てた東国政権はわずか3カ月で挫折した。5月に将門追討軍が帰洛すると、純友追討が本格化。対抗して純友は天慶4年(941)5月に太宰府を襲撃したが、追討軍に敗れて四散(しさん)する。純友は伊予に逃れたものの、6月29日には子息とともに橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた。

 

 これらの反乱は、旧態依然とした中央支配からの脱却を目指したものであった。その理想は果たすことができなかったが、彼らが示したエネルギーは蓄積され、次の時代を迎える力となっていったのだ。

 

 平安時代末期、皇位継承を巡り鳥羽法皇と崇徳(すとく)上皇が対立。久寿2年(1155)に後白河天皇が即位すると、上皇の不満は頂点にまで達してしまう。それに加え、摂関家では藤原忠通(ただみち)・頼長(よりなが)兄弟が関白・氏長者(うじのちょうじゃ)を争っていた。

 

 保元元年(1156)に法皇が亡くなると、上皇は頼長と結託し源為義・為朝父子、平忠正といった武士を味方につけ、後白河天皇と関白忠通を討とうとした。対して天皇方は為義の長子である源義朝、忠正の甥である平清盛らの兵をもって上皇方を破った。上皇は讃岐に流され、頼長は戦死。為義は斬られてしまい、為朝は伊豆の大島に流された。これが世に言う「保元の乱」である。

 

 為義の八男であった為朝は、強弓を使う武勇の士として早くから知られていた。上皇方だった武士への処断は厳しかったにもかかわらず、為朝が死一等を免ぜられたのは、その武勇を惜しむ声が、朝廷内に挙がったからだと言われている。

 

 八幡太郎義家の曽孫(ひまご)であることを誇りとしていた為朝は、配流は先祖の武勇を汚すため「大島は朝廷から賜った我が領地である」と宣言。次いで新島、神津島、三宅島、御蔵島など、伊豆諸島を次々に治めた。為朝の離島独立国は、それから10年以上も続く。その影には伊豆をはじめ三浦、房総の海賊衆の協力があったと考えられる。なぜならば伊豆諸島周辺の海域は、黒潮が「黒瀬川」と呼ばれるほど速く流れている。そんな海域を自在に行き来するには、それを熟知した航海術を身に付けた者たちが必要不可欠だからだ。

 

 この状態に朝廷は手をこまねいていた。なぜなら朝廷は自前の水軍を持っていない。海戦が必要な場合、その地の水上生活者を集め、にわか水軍を編成して対処した。しかし伊豆沿岸の海賊衆は、ほぼ為朝に味方していたからである。その間、為朝は水軍を駆使して八丈島や青ヶ島も占領し、支配地域を広げた。

 

 結局、為朝の本拠地となった大島に討伐軍が派遣されたのは、嘉応2年(1170)4月になってからだった。命が下されたのは、伊豆国の狩野荘を本拠としていた工藤(狩野)茂光である。これに従ったのは伊東祐親(すけちか)、北条時政、宇佐美平太、加藤光員(みつかず)、天野遠景(とおかげ)ら伊豆の武士たちであった。兵数は500余人、兵船は20余艘が集められた。

 

 軍船が押し寄せて来るのを見た為朝は、先頭の一艘を得意の強弓を用いて見事に射抜き、たった1本の鏑矢(かぶらや)で沈めてしまう。これで面目を施した為朝は、屋形に戻り柱を背に自刃する。攻め手は恐れをなし、なかなか攻め込めずにいた。最後は加藤光員の弟の加藤景廉(かげかど)が屋形に裏手から入り、すでに立ち往生していた為朝の首を薙刀で打ち落とした。

 

 だがこの時、為朝は死んではいなかったという説もある。麾下の水軍衆の手引きで密かに大島を抜け出し、八丈島に逃れた。さらに海路を使って長駆(ちょうく)、琉球へと渡ったというのだ。そして無事に琉球へ到着した為朝は、土地の豪族であった大里按司(あじ)の妹を娶り男子をもうけた。その子が長じて初代琉球王舜天(しゅんてん)になったと、江戸時代の初期に編纂された琉球の歴史書『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』にある。

 

 当時の船や航海術では、それは夢物語のようにも思える。しかしエンジン船が登場する以前の船は、太平洋を東進する際は黒潮に乗り、西進する時は東南方向に吹く季節風を利用していた。

 

  伊豆の下田を朝山まけば

  晩にゃ志州の鳥羽の浦

 

 これは下田に伝わる里謡の一節。風をうまく捉えることができれば、伊豆から志摩はたった1日の距離ということだ。それならば伊豆から琉球まで航海することは、けして不可能ではないだろう。八丈島から志摩の鳥羽まで向かうには、難所の黒瀬川を必ず越えなければならないので、この海域を熟知した伊豆海賊衆の手引きは不可欠だ。その先は紀伊半島、瀬戸内海、九州の海賊衆を水先案内人としたのだろう。これは想像しただけでも、壮大な浪漫が感じられる話ではないか!

大島の波浮港は江戸時代までは湖であったため、他の伊豆諸島を加えても天然の良港はなかった。そのため伊豆半島を根拠地とした海賊衆が、為朝水軍の中核となった。写真は石廊崎の東側にある長津呂の入江。海賊衆にとって格好の根拠地にできる港だ。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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