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自然が生み出した海の要害。伊豆半島になぜ海賊衆が誕生したのか?


海賊が活躍した海は、九州や瀬戸内海といった西国だけではなかった。複雑な入江と海蝕洞窟に恵まれた伊豆半島には、古代から黒潮と季節風を自在に捉えた海の民が活躍していた。その時々の世情を巧みに利用した、彼らの足跡を追う。


 

“船隠し”の絶好の場となる大小無数の洞窟が存在

西伊豆の海岸では、随所で海底火山の噴火にともなう水底土石流と、その上に降り積もった火山灰層が見られる。海岸線には奇岩が聳えている場所も多い。これらは海底火山の岩脈群が露出したものだ。いかにも海賊衆が身を隠していそうな光景である。

 伊豆半島といえば、東京をはじめ関東圏の人たちにとっては、人気のレジャースポットである。魅力的な海に囲まれているため、海水浴はもちろんのこと釣りやダイビングに適したポイントが数多く点在。さらに2012年には日本ジオパークに認定されている。

 

 フィリピン海プレートの上に位置する伊豆半島は、もともとは日本列島とは別の島であった。約2千万年前には、数百kmも南にあった海底火山群であったのだ。フィリピン海プレート上にできた火山島が、プレートとともに北に移動。約60万年前、日本列島に衝突したことで、現在の伊豆半島となった。

 

 その後もプレートによる地殻変動や火山活動が続いた伊豆は、美しい景観や温泉、深い海など、独特の自然環境を生み出したのである。こうした懐の深い伊豆の自然こそ、この海域を根城とする海賊衆を、生み出す要因となったのである。

 

 日本は海に囲まれていることから、昔からさまざまな海の道=海道が開拓された。とくに列島を取り巻く海には、さまざまな海流が存在していて、太古の昔から海で生きる人々は、これを利用して船を進める術を身に付けていたのだ。海流というのは、潮の干満によって引き起こされる潮流と違い、地球規模で起きている海水の流れのことである。潮流のように時間によって流れる方向が変わることはない。言い換えれば「海を流れる川」のようなものだ。

 

 太平洋の真ん中付近には、東から西へ流れる北赤道海流がある。これはフィリピン群島にぶつかると北転し、黒潮と呼ばれる海流となる。黒潮は台湾沖から琉球列島、薩南諸島に沿って北上する。その本流は九州東方から土佐沖、紀州沖へと向かい、さらに伊豆沖を通り房総沖で陸地から離れていく。

 

 黒潮は日本の沿海に近づくにつれて速度を増し、紀州沖あたりでは時速7〜8kmにもなる。そのような流れの速い部分は、幅がわずか6kmほどしかない。この流れにうまく乗れば、陸の常識では考えられないほど、遠くまで移動することができた。

 

 実際、伊豆の漁師たちの間には「一棹(ひとさお)三里」という言葉がある。黒潮に乗れば、一棹で三里(約12km)も航行することができる、という意味だ。

 

 しかし流れに逆行することや、これを横切って航行するのは、命がけという危険な行為でもあったのだ。なかでも三宅島と八丈島の間は、古くから船乗りたちが「黒瀬川」と呼んで恐れる流れがある。ここは黒潮本流がとくに流速を増し、激流となっているのだ。

 

 そんな黒潮が沿岸を流れている伊豆半島には、海流によって運ばれた亜熱帯植物が数多く分布している。クロマツ、クスノキ、タブノキ、さらにはスギなど、船材となる大木が豊富に自生していたのだ。縄文時代や弥生時代には、これらの大木から丸木舟が造られていたと考えられている。

 

 さらに文献にも古い記録が見られる。それは『皇代記(こうだいき)』にある「崇神天皇14年(紀元前84)、伊豆より大船を貢納す」というものだ。これが造船に関する最古の記録である。さらに『日本書紀』には、応神(おうじん)天皇が伊豆の国に巨船を造るよう命じたとある。この船は「枯野(からの)」と呼ばれ、難波の津に回航されると、天皇が朝夕に使う清水を汲むために、26年間も使われた。

 

 その後も伊豆では造船業が盛んで、しかも造られた船は畿内へと回航されたため、おのずと航海術に長けた海人たちが多く輩出された。663年、日本軍と百済(くだら)復興軍は、白村江で唐・新羅(しらぎ)連合軍と激突した。渡海した船団の中には、伊豆で建造された船が多数加わっていたと考えられている。当然、操船に長けていた伊豆の人も、兵士や水夫として乗り組んでいただろう。

 

 このように伊豆には、古くから海の民が暮らしていくために不可欠な造船の技術、さらに船を操る人々も多く輩出されたのだ。

 

 冒頭で触れた通り、ジオパークに認定されるほど特異な自然環境も、忘れてはならない伊豆半島の特徴だ。西海岸から南部にかけては、世界的にも稀な海底火山の美しく多様な地層断面や、海底火山の噴火にともなう水底土石流とその上に降り積もった軽石・火山灰層が見られる。それが海水による長年の浸食により、大小無数の洞窟を形成しているのだ。こうした洞窟は、小舟であれば楽に中に入ることができる。つまり船隠しとして利用できる場所にも困らないわけだ。

 

 これだけの好条件を備えた場所は、広大な海域を誇る日本でもそう多くはない。これは海賊衆が根城とする場所を選ぶ際の、大きな理由となるだろう。

 

 また瀬戸内海の村上水軍や紀伊半島の熊野水軍などと同じように、案内なしでは容易に越えられない海の難所が控えていたので、水先案内を買って出ることもできた。彼らは案内の成功報酬を得ていたのだが、無断でこの海域を抜けようとする船に対しては、海を知り尽くした優位性を生かし、容赦なく攻撃を仕掛けて積み荷を奪ったのである。

 

 日本国内に統一政権が誕生すると、海路を使った東西交通の盛んになる。現在の船とは違い、昔の船は陸地近くを航行した。駿河湾から伊豆の石廊崎を回り、相模湾に入る難所を無事に乗り切るには、現地の海を知り尽くした頼れる水先案内人の存在が欠かせない。

 

 その一方で、独自の通行料を徴集する輩は、中央政権から見れば意に沿わぬ者=賊ということになる。いつしか伊豆の海人たちは、中央政権から海賊と見なされるようになった。

 

 日本の海賊と言えば、九州や瀬戸内海、それに紀伊半島を根城にしている松浦や村上、安宅、九鬼などが知られているが、伊豆半島にも屈強な海賊衆が存在したのだ。

 

西海岸の土肥から石廊崎に向かってシーカヤックを漕ぐと、あちらこちらで海蝕によってできた洞窟を見ることができる。カヤックのような小舟なら楽に入れるので、海賊衆が船を隠すために利用していたとも考えられる。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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