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関東に支配地域を広げた北条家 その水軍の中核を担った伊豆海賊衆


早雲(そううん)から代を重ねるごとに、支配地域を広げていった北条家。それとともに水軍の活動海域も駿河湾から相模湾、さらに江戸湾へと広がった。里見水軍や今川水軍、そして武田水軍と、手強い相手も次々と現れたのである。


 

駿河湾の制海権を完全掌握した北条水軍

関東に覇を唱えた後北条氏の祖・北条早雲の像。小田原城を奪取する時、軍勢が多くいるように見せるため、牛の角に松明をくくり付け、まるで大軍が移動しているように見せた。小田原駅のこの像は、それを現している。

 永正16年(1519)、戦国時代を代表する武将・北条早雲が88歳で亡くなった。二代目となった氏綱(うじつな)は、早雲が治めた伊豆と相模という領国の経営を固めつつ、武蔵方面へと進出する。そして大永4年(1524)には、江戸城にいた扇谷上杉朝輿(ともおき)を攻め、河越(かわごえ)へと敗走させた。

 

 こうして占領した江戸城に、城代として富永神四郎政直と遠山四郎左衛門直景を置いている。富永政直は、西伊豆土肥の海賊出身の武将だ。この当時の江戸城は川や江戸湾に通じていたため、水軍の拠点として活用しなければ意味のない城であった。しかも北条氏は、相模の三浦半島を制圧して以来、安房(あわ)の里見氏と江戸湾を隔て対峙していたのである。

 

 安房は三方を海に囲まれた小さな国で、その昔、海人族が四国の阿波から渡って来たため、同じ読みの国名になったと伝わる。伊豆と同じく黒潮文化圏で、古くから海賊が活躍していた地だ。大永5年(1525)、氏綱は下総(しもうさ)に侵攻した。これに対して里見実堯(さねたか)は、下総に出兵するとともに、水軍を動員して三浦半島を攻めた。里見水軍は北条方の軍船を破壊し、城ヶ島に上陸。しかし風が強くなったので、安房に引き揚げた。

 

 さらに翌年になると数十艘の軍船を仕立てた里見水軍が、安房と上総(かずさ)の兵を乗せ三浦半島の三崎に来襲。迎撃に出た北条水軍を撃破する。里見水軍の戦法は、船内に大力の者を潜ませ、敵船に接近したら彼らが大石や材木を投げつけ、相手の船を破壊した。

 

 三崎沖海戦に勝利した里見水軍は、敗走する北条方を追撃し鎌倉に上陸。寺社を破壊し、鶴岡八幡宮も焼き払った。小田原にいた氏綱の嫡男・氏康が援軍を送ったが、その軍が着く前に里見軍は安房に引き揚げた。

 

 天文10年(1541)に氏綱が亡くなると、北条の家督は後に名将と称えられた氏康が継いだ。すると天文15年(1546)、氏綱に煮え湯を呑まされ続けた関東管領の山内上杉氏(上杉憲政/のりまさ)、扇谷上杉氏(上杉朝定/ともさだ)、古河公方(足利晴氏/はるうじ)が連合し、北条綱成(つなしげ)が守る河越城に攻め寄せて来た。連合軍8万に対して北条軍は1万。だが戦いの結果は北条方の圧勝。扇谷家は当主が討死、山内家は重臣の何人かが討死、古河公方も城内から討って出た綱成に、さんざん蹴散らされた。これが三大奇襲戦と呼ばれる「河越夜戦」である。

 

 こうして関東の足場を固めた氏康は、甲斐の武田晴信(信玄)、駿河の今川義元と和睦し、甲相駿(こうそうすん)三国同盟を結んだ。後顧の憂いがなくなった氏康は、房総の地で争っていた里見義堯(よしたか)と、北関東へ進出して来る長尾景虎(後の上杉謙信)への攻撃に注力する。その里見氏と長尾氏は軍事同盟を結び、北条氏への対抗を強めたのだった。

 

 北条と里見との間では、海陸を舞台に死闘が繰り広げられた。陸戦では北条方の連戦連勝であったが、海戦では里見水軍に押されがちだった。というのも北条氏の支配地が広くなるにつれ、支配海域も駿河湾、相模湾、江戸湾と拡大。伊豆や三浦の海賊衆だけでは守りきれないので、陸戦部隊から水軍へ編入された将兵が多くなったからだ。

 

 江戸湾を舞台にした北条・里見両水軍による海上ゲリラ合戦は、その後も長く繰り広げられた。両軍とも水軍最大の強みである「攻撃地点を自在に選べ、敵の油断を突ける」点を、いかんなく発揮していた。

 

 北条水軍はこうした海上ゲリラ合戦を、駿河湾を舞台に今川家とも繰り広げていた。だが永禄11年(1568)、甲斐の武田信玄が駿河に進出。今川氏真を追いやって悲願だった海に面した領国を手に入れた。同時に今川水軍を抱え込み、武田水軍を編成している。

 

 信玄は駿河進出に先駆け、今川水軍の主だった者に調略の手を伸ばしていた。そして駿河占領後、今川水軍で船大将だった岡部忠兵衛に、武田水軍の編成を任せている。忠兵衛は自ら伊勢に赴き小浜景隆、向井伊兵衛といった伊勢水軍の精鋭を招聘。さらに北条水軍で船大将であった間宮武兵衛・造酒丞(みきのじょう)兄弟も、武田方に誘い入れてしまったのだ。

 

 元亀元年(1570)、武田軍は伊豆に侵攻する。その際、水軍が海上から部隊を支援している。この後、武田と北条の水軍は駿河湾を舞台にして、しばしば海戦を繰り広げた。だが元亀2年(1571)、北条氏康が亡くなると、両氏の間で講和が成立している。

 

 元亀4年(1573)4月、大軍を率いて西上作戦を遂行中だった武田信玄が、三河の野田城を攻略中に発病。急ぎ甲斐に戻る途中に亡くなったため、武田家は勝頼が治める。勝頼は天正3年(1575)、三河の長篠城を攻めたが、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫してしまう。態勢を立て直すために天正5年(1577)に北条氏政の妹と結婚した。

 

 翌年に上杉謙信が亡くなると景勝と景虎、ふたりの養子の間で家督争いが起こった。この時、勝頼は氏政の弟の景虎に味方していたが、途中から景勝側に寝返ってしまう。その結果、武田家と北条家の関係が再び悪化し、両家は陸海で激突することとなった。

 

北条水軍の最重要拠点のひとつであった、重須の長浜城跡。内浦湾を隔て、沼津と向かい合う位置関係にある。右手に見える重須の港に、船団を係留していたと考えられる。五十挺櫓の安宅船はここで造船された。

 

 そして天正8年(1580)3月、駿河湾と沼津の陸地を舞台に、最大の激戦が勃発する。この時、重須にあった北条水軍の一大根拠地長浜城には、当時の戦艦と呼べる五十挺櫓の安宅船10艘を筆頭に、巡洋艦クラスの関船、小回りの効く小早船が集結。武田勢を攻撃すべく、長浜城を出航した。

 

 北条水軍の安宅船船首には、大砲一門が備えられていた。沼津の千本浜から吉原海岸にかけて布陣していた武田勢めがけ、この砲を海上から猛烈に発砲したのである。そのため武田勢は大混乱に陥り、退散した。その後、再び海岸近くに出て来た武田勢は、砂を掘って土塁を築き、鉄砲隊を配置。海上の安宅船めがけ発砲した。だが矢倉や舷側が椋の厚板で囲われた安宅船には効果がなく、逆に返り討ちになってしまう。

 

 北条水軍の安宅船の前に沈黙を続けていた武田水軍だったが、3月15日未明に関船が根拠地の清水港を出航。重須の港に停泊していた北条方の船を奇襲攻撃した。ほとんどの将兵が眠っていたため、何艘かが放火される。

 

 だが態勢を整えた安宅船が反撃に出ると、武田方の関船はすぐさま逃げ去った。この戦いをはじめとする駿河湾海戦は、北条・武田双方の水軍が、自軍の勝利を記録している(『北条五代記』と『甲陽軍鑑』に記載)。このことから、これらの戦いは数度に渡って行なわれたと思われている。

 

 最終的には海戦で優勢だった北条勢が、千本浜の武田勢に陸から総攻撃を仕掛けた。熾烈を極めた戦いの結果、武田勢は多くの戦死者を出し敗走してしまう。

 

 西伊豆を根拠地としていた北条水軍は、伊豆の海賊衆が中核であった。駿河湾海戦と千本浜の戦いで、武田軍を海陸ともに駆逐した北条水軍は、駿河湾の制海権を完全に掌握したのであった。

 

沼津の千本浜に建つ首塚。明治33年(1900)、暴風雨で倒れた松の大木の下から夥しい頭蓋骨が発見された。その後の鑑定の結果、天正8年の北条対武田の合戦で討死した将兵のものと判明。手厚く葬られている。

 

(最終回に続く)

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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