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天下軍との圧倒的戦力差には抗えず 遂に終焉の秋(とき)を迎えた伊豆水軍


関東一帯をほぼ手中に収めた北条家。支城ネットワークを構築し、広大な領地を統治した。だが戦国時代は終わりに近づき、豊臣秀吉が天下統一を目指し北条の支配地に触手を伸ばす。伊豆水軍の運命も大きく左右されたのだ。


伊豆海賊衆の終わりを告げる下田城落城

西伊豆町で毎年7月に開催される「堂ヶ島火祭り」は、600年ほど前に浜に襲来した海賊を撃退したという故事にちなみ、海賊船討伐シーン、海賊船炎上が海上で繰り広げられる花火大会。海賊を撃退した民の子孫は、戦国時代には北条水軍の一翼を担っている。

 

 北条氏は三代目の氏康の頃、関東の奥深くまで進出した。その勢力範囲が最大となったのは四代氏政、そして五代氏直の時。ほぼ関東一円を支配下に置いたのである。

 

 そんな北条氏の軍制組織は、本城である小田原城を守る御馬廻り衆を中心にして、各地に立地した支城を守る支城衆に大別されていた。主だった支城衆は伊豆衆、八王子衆、江戸衆、玉縄衆、小机衆、三浦衆、河越衆、鉢形衆などであった。

 

 平時、これらの衆はそれぞれの領地にいて、農耕を営むかたわら武術の訓練を積んでいたのである。いざ非常召集がかかると、各々が決められた人数を引き連れ支城に集まり、合戦へ赴く。北条氏は当時としては画期的な、徴兵制度を導入していた。領国内の武士だけでなく、農民や町民でも15歳から70歳までの男子は、みな戦闘に動員されたのだ。

 

 そんな中、伊豆衆は駿河湾の制海権を掌握していたが、その生活はけして楽ではなかったようだ。もともと知行地が少ないうえに、海からの収穫は不安定である。不漁の日が続くとたちまち困窮するし、逆に大漁の時は大盤振る舞いしてしまうのが常であった。

 

 北条氏は水軍の戦力を維持するために、領内の漁民を船方として徴発した。集められた者たちは、水夫として兵船に乗り組み、合戦にも参加させられたのである。さらに伊豆は、古代から造船術に長けていたので、軍船造りにも駆り出されていたのだ。

 

 加えて海賊衆が砦を築いていた西伊豆沿岸は、西から北条領を伺う勢力から領国を守る最前線であるため、軍船の大型化に合わせ根拠地の整備拡大も行なわれた。これらの負担は、伊豆衆が困窮する要因となった。

 

 北条氏の伊豆支配は早雲以来の重要拠点である内陸部の韮山城と、水軍の根拠地となっていた下田城が中心であった。韮山城は北条氏政の弟氏規、下田城は伊豆衆二十一家の筆頭であった清水康英が城主を務めていた。康英は全伊豆水軍を統率していた船大将で、居城の下田城は全国的に見ても最大クラスの水軍城であった。だが伊豆半島の南端、しかも相模湾に面した場所に立地していたので、西からの敵と戦う際には不都合であった。

 

 そこで北条氏は西伊豆の八木沢(現在の伊豆市土肥)に、新たな大型水軍基地である丸山城を築いた。かつて港があった場所は、現在では江戸時代に度々起こった洪水のために、埋まってしまった。しかし戦国時代には、深くて広い入江があったのである。

 

 しかも入江と外海の境に、標高50メートルほどの丸山が聳えていて、山頂からは駿河湾が一望できたのだ。ここを出丸とし、南側に続く山の斜面に本丸をはじめとする曲輪を配置した。こうして丸山城は、西伊豆における北条水軍最大の根拠地に拡張されたのだ。

 

 天正16年(1588)、西日本を完全制圧した豊臣秀吉が、北条氏政・氏直父子に上洛を求めてきた。だが父子はこれを「早雲公以来、五代にわたり関東を治めてきた北条家が、成り上がり者の秀吉なぞに頭は下げられない。関東の地が欲しくば力ずくでやって来るがいい」と、あからさまに拒絶したのである。

 

 その結果、秀吉は天正17年(15891120日に、北条に対する五ヶ条の宣戦布告書を公布。全国の大名に動員令を発した。秀吉が率いる天下軍は総勢22万人という、前代未聞の大軍団に膨れ上がる。それに対して北条方は、各地の支城に軍勢を配し、主力は小田原城に籠城する策を取ったのである。

 

 伊豆沿岸では獅子浜城、長浜城、安良里城、田子城、下田城に水軍を配置。なぜか改修された丸山城は外された。大軍相手のゲリラ戦には、目標になりやすい大きな城は不利と考えたのかもしれない。

 

 北条水軍の主力は駿河湾海戦で活躍した五十挺櫓の安宅船だ。これがあるがゆえ、北条水軍の威力は東国に鳴り響いていた。しかし豊臣軍には志摩の海賊大名九鬼嘉隆(くきよしたか)、村上海賊一門で大名となった来島通総(くるしまみちふさ)のほか、加藤嘉明や脇坂安治(わきざかやすはる)、長宗我部元親など四国や中国の水軍を率いた大名が参陣。数百隻にも及ぶ連合水軍が結成されたのである。

 

 さらに徳川家康配下の三河・遠江・駿河の水軍も参戦している。そこにはもともとは伊勢水軍から招聘され、武田水軍の船大将を務めていた小浜景隆、同じく武田水軍に属していた向井伊兵衛の子、向井兵庫などがいた。

 

 清水港に集結した豊臣連合水軍は、北条水軍にゲリラ戦を行なわせないように、西伊豆沿岸の城や砦はもとより小さな入江に至るまで、文字通りしらみ潰しにしていった。八木沢の丸山城は徳川方の小浜景隆、安良里と田子の城は同じく向井兵庫・本多重次の水軍が攻略。武田水軍時代、駿河湾海戦で味わった敗北の意趣返しに成功している。

 

伊豆水軍の最大根拠地に拡張された八木沢の丸山城。現在、マンションが立っている付近一帯が、戦国時代には入江を成していた。海に飛び出した丸い山が出丸、左(南)に続く尾根に本丸以下の曲輪が配置されていた。

 

 九鬼水軍の特大装甲安宅船には、大型の大砲が3門も積まれていたため、北条水軍自慢の五十挺櫓の安宅船もまったく歯が立たなかった。さらに長宗我部元親軍の船大将、池六右衛門が座乗する大黒丸は、二百挺櫓という超大型船のうえ大砲2門、鉄砲200挺という重装備。それまでの常識を打ち破る豊臣連合水軍の前に、北条水軍は粉砕されてしまう。

 

 唯一、下田城の清水康英だけが頑強に抵抗を続けた。秀吉は長宗我部元親を下田城にとどめ、主力は小田原城包囲に向かわせた。早く小田原に向かいたい元親は「北条本家はすでに降伏した」という偽の手紙で康英を騙し、遂には城を開城させてしまう。

 

 約束では康英を丁重に扱うとした元親だったが、城から出てくるとすっかり敗軍の将として、ぞんざいに扱ったのである。いずれにしてもこの下田城落城が、古代より駿河湾から相模湾にかけての海域を我が物顔で航行していた、伊豆海賊衆(北条水軍)が壊滅した瞬間となったのである。

 

 その後、旧伊豆水軍の一部は徳川家康に仕え、徳川水軍の一員となった。だが多くは伊豆の地に土着している。だが海賊・水軍としての活躍の場を失くしてしまっても、海に生きる民が持つ冒険精神まで失っていない。

 

 信濃の大名小笠原貞頼が家康の命を受け、南海探索に出た。そして小笠原諸島を発見した航海で、伊豆水軍の子孫が水先案内に立っていたのが何よりの証拠である。

 

 さらに優れた造船技術は、江戸時代を通じて連綿と受け継がれていった。だからこそ幕末の安政元年(1854)、乗船ディアナ号を地震による津波で失ったロシア使節プチャーチンのため、西伊豆戸田の船大工たちが洋式帆船ヘダ号を造り上げるのに成功したのだ。

 

上杉謙信、武田信玄という名将でも落とすことができなかった小田原城。城下町をすっぽりと防御線が囲む、巨大な縄張りを持つ城郭であった。現在の天守西側の丘陵には、当時を忍ばせる「小峯の大堀切」が残されている。

 

 

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過去記事

野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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