太平洋戦争勃発!新米通信兵、遂に戦場へと向かう
太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦 第2回

横須賀海軍通信学校の教育班集合写真。前列の左から2人目が小野打氏。この頃、対米戦争は避けられない情勢となっていたので、水兵に不可欠な水泳訓練などは二の次となり、ひたすら通信兵としての訓練に明け暮れた。
昭和16年(1941)3月10日、小野打数重は2か月にわたる舞鶴海兵団での教育を終え、三等水兵となる。そして10時には東舞鶴駅を出発、翌日の夜明けに通信学校のある横須賀に着く。この頃の日米関係は、いつ戦争に突入するかわからない状況だったので、大急ぎで電信兵を育成する必要に迫られていた。
3月15日に入校式が終わり、小野打らは第五十四期普通科電信術練習生となる。民間の電信教育だと3年かかるカリキュラムを9か月で習得するのだから、夏の休暇もなしに朝から晩までトンツートンツーで過ごした。
そして11月25日には、早くも卒業式を迎えた。この頃、すでに連合艦隊はアメリカとの戦争に備え、臨戦体制となっている噂が小野打の耳にも届いていた。そんな時節柄なので、通信学校を卒業したらすぐに赴任である。
トラックに衣囊(いのう/衣類を入れるキャンバスの袋。海軍ではこう呼ぶ)を積み、新設された久里浜駅に向かう。小野打の赴任先は九州の島原半島に駐屯する第二通信隊であったが、赴任地や乗艦については、親にも知らせることはできない。途中での面会も禁止だ。重々しい雰囲気の中、列車は西へ走り続けた。
翌日の昼、列車は諫早(いせはや)駅に到着する。そこから小浜温泉行きのバスに乗った。終点まで乗車したのは、同じ隊に赴任する同期の西村と小野打の二人だけであった。バス停から先は、隊から迎えに来たトラックに乗る。隊に着くと司令以下分隊長、分隊士などに着任の報告。その日は先任の二等水兵の手伝いをして1日が終わった。横になると、卒業以来の出来事が目まぐるしく脳裏を駆け巡った。
翌日は終日、先任に付き添って仕事を教わる。そして夜には幕舍にある電信室に入り、当直任務に就いた。電報が少ない時間帯ではあったが、レシーバーを付け緊張しつつ当直時間を過ごす。それが終わると居住幕舍に戻り、朝までの短い睡眠に就く。
起床後は食事の用意、幕舍の清掃、そして当直と仕事は山ほどある。瞬く間に1日が終わり、翌日の日課が伝えられた。それによると明日は朝から普賢岳登山であった。
翌日、登山から隊に戻ると、明朝は輸送船に乗船するということで、荷物整理を命ぜられた。長崎に着いて数日だったが、早くも日本を離れるのだ。どこへ向かうのか知らされない。ただ戦争は近いと感じられる。そう思うと、日本を離れるのが寂しく感じられた。

真珠湾攻撃に向かうため、北太平洋の荒波を裂いて進む空母機動部隊。この作戦に日本海軍は赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴という6隻の正規空母を投入した。
翌朝は朝食を済ませると、3日間お世話になった幕舍を撤収。大発(だいはつ)と呼ばれる上陸用舟艇に乗り込み、沖合いに停泊していた輸送船「筥崎丸」(はこざきまる)に乗り込む。この船は徴用された貨客船で、1万トンはありそうだ。
下士官と兵が使う居室に荷物を運び入れると、その夜からの電信室当直や船内生活の日課が伝えられた。そうして慌ただしい1日が終わり、夜の巡検後には再び船内生活の注意をきつく言い渡された。その後、自由時間となったので、西村と一緒に甲板に出た。船はいつの間にか動き出している。どこへ向かっているのか、わからない。ただ陸地で光る電灯の輝きが、妙に懐かしく思えた。
翌朝、船は佐世保軍港に入港。その日は上陸許可がおりたので、西村と映画を見て、名物の河豚(ふぐ)ちりを食べた。「食べ物で思い残すことはない」と満足し船に戻ると、先任下仕官から命令を受けた。それは「小野打三水と西村三水は明朝から駆潜(くせん)隊に派遣。今夜のうちに準備するように」というものであった。
翌朝は大発で駆潜艇まで送ってもらう。それは元捕鯨船の十京丸、十一京丸、十二京丸からなる隊であった。小野打は十一京丸、西村は十二京丸に乗り組み、12月2日朝、佐世保港を出航。4日に台湾の高雄港に入港した。
この十一京丸には横須賀で同期だった奥野三水が、専属の通信士として乗り込んでいた。「お前はここにいたのか。応援に行けと言われて来たよ」「そうか、それは助かる。よろしく頼むよ」と、親しく会話を交わす。
高雄に在泊中、12月8日の朝を迎えた。その日、放送で真珠湾への奇襲が成功。日本は米英と戦争状態に入った事を知らされた。
「いよいよ戦争か。これで生きて日本には帰れないな」という思いが、脳裏を駆け巡った。

12月7日朝(現地時間)、真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を攻撃するために空母を発艦する攻撃隊。攻撃は2回にわたり約360機の雷撃機、水兵爆撃機、戦闘機を繰り出す。
※文中の敬称略。
小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。