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運命を分けた転出命令 バリクパパンで過ごした夢の日々

太平洋戦争の奇跡! キスカ島撤退作戦  第3回

艦種や艦名は不明だが、海軍志願兵たちが艦上を教室にして、公開訓練とともに座学に勤しんでいる様子。米英との戦争が目前に迫ってくると、通常の訓練では時間が足りない。どの部隊もいち早く戦力となる新兵を育てた。

 すでに命令が下っていたのか、12月8日の午後になると高雄港に停泊していた夥(おびただ)しい数の艦船や輸送船の姿がなくなっていた。小野打(おのうち)が乗り組んでいた駆潜艇(くせんてい)も、司令艇を先頭に高雄港を後にする。すぐさま南シナ海の荒波の洗礼を受けつつ、任務海域であるバシー海峡を目指した。台湾とフィリピンの間のこの海域は、つねに波が高いことに加えフィリピン駐屯のアメリカ軍の行動範囲である。

 

 外海に出た瞬間、小さな駆潜艇は艇首がググッと波に持ち上げられる。すると艇尾は海中に没するほど沈む。逆に艇首が潜ると艇尾のスクリューが空回りした。そんな荒れた海で連日、敵の潜水艦はいないか見張る乗組員もつらいが、船酔いでフラフラな状態で通信機に張り付いているのも堪える。とにかく吐き気が治らないが、当直は逃れられない。

 

 1220日、駆潜艇はいつの間にか陸岸の見える湾に入っていた。陸地には椰子の木が生い茂り、湾内には無数の輸送船のほか、それを護衛してきた駆逐艦の姿も見える。そこはフィリピンのリンガエン湾であった。駆逐隊はしばしここに停泊することなる。

 

 その夜、電信長より「小野打三水、本隊に戻るように連絡があったから、明日の朝に下船するように」との命を受けた。その命令を聞くと、船酔いから解放される喜びとともに、なぜか去り難い気持ちが沸いた。あまりに船酔いがひどいため、艇長が元の部隊に復帰できるように手配してくれたことを、小野打は後に知った。そしてこれが、この艇との永遠の別れとなったのである。

 

 リンガエン湾で別れた十一京丸はその後、マニラ攻略戦に参加。マニラ湾口を警戒中にアメリカ軍の飛行機から爆撃され、直撃弾を受け轟沈してしまったのだ。温厚だった艇長、船酔いを気遣ってくれた電信長、同年兵の奥野、ほか全員が戦死してしまう。自分もあのまま艇に残っていたら、運命を共にしていたであろう。にもかかわらず、乗組員中、一番役立たずであった自分が生き残るとは。小野打はしばらくの間、戦争の不条理に苛(さいな)まれた。

 

 1221日、往路で乗船した筥崎丸と会合するまでの間、駆潜艇母艦第三藤丸に転乗。リンガエン湾を出航し、さらに南下した。昭和17年(1942)の元旦は船内で迎え、1月3日になると彼方に椰子の木が生い茂る陸地が見えてきた。乗員によればボルネオ島の東側にあるタラカン島らしい。

 

「ここに筥崎丸が入港している。間もなく迎えが来るから、すぐに用意しておくように」

 

 当直の士官から告げられた。こうしてわずかな間であったが、親切に扱ってもらった便乗生活に別れを告げ、大発に乗り込んだ。

 

 筥崎丸の通信隊に復帰すると、船はすぐに出航。ボルネオ島に沿って南下し、1月5日にバリクパパン港に入った。ここで積荷を降ろし、トラックに積んで4㎞先の町にあるオランダ人技師が住んでいた家まで運んだ。

 

 小野打が所属する隊は、このバリクパパンに通信隊を設置するのが当面の任務だ。電信室や烹炊所(ほうすいじょ)、電気設備などの準備は軍属で構成されている建設隊が担当。その間にも、仮電信室を設けて通信を始めた。

 

 やがて隊内が整備され電信機が設置されると、軍の駐屯地らしくなった。同時に4時間交代での当直も始まる。こうして仕事が軌道に乗ると、外出も許された。

 

 その頃になると、小野打は現地の男の子と仲良くなっている。きっかけは非番の日、10歳くらいのその子に、パパイヤを買って欲しいと声をかけられたことだ。代金はタバコでいいと言う。その面影が日本に残してきた末弟を彷彿とさせたので、タバコ1箱でパパイヤ、それにバナナを買い取った。

 

 以来、彼は毎朝のようにやって来た。名前を尋ねるとタモロだという。そこで小野打はタローと呼ぶことにした。やがてタローの家にまで招待された小野打は、タローの母や姉とも親しく交流するようになる。

 

 バリクパパンで戦争中とは思えない平和な時間を過ごしていた小野打らに、異動の命令が下された。「4月20日に出航する白山丸に便乗、舞鶴海兵団に転勤」というものだ。親しくなったタローとの別れは寂しい。出発の日、タローはトラックにしがみつき「オノチ、サヨナラ」と、片言の日本語で叫んでいた。その姿が、いつまでの脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

夏服を着込んだ小野打氏。氏は開戦とともに南方方面へ出撃している。だが乗り組んだ駆潜艇では激しい船酔いに見舞われた。結果的に勤務に支障が出るほどの船酔いが、小野打氏の命を救うことになった。

 

※文中の敬称略。

小野打数重氏ご本人への取材と、氏から提供して頂いた数多くの資料、著作を元に構成させて頂きました。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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