丸亀城(香川県丸亀市)~知られざる名築城家の遺作
名城の鑑賞術 第8回
総和60メートルにも及ぶ三段に積み上げられた石垣の規模は日本一

現存天守は、角度によって違う表情をみせる。海上や城下から望む正面には、威風堂々としている一方、左右や背面については、破風の数も少なく、一種の手抜きが行われている。壮大な石垣と天守との組み合わせは、丸亀城の見逃せない魅力の一つ。撮影/外川淳
天正15年(1587)、生駒親正(いこまちかまさ)は、豊臣秀吉から讃岐一国の支配を一任されると、居城の選択に苦慮し、一時は丸亀城を候補としてあげたが、結果的には高松の地を本拠と定め、築城工事に着手した。
ただし、慶長二年(1597)、親正は讃岐西部を支配する拠点として丸亀築城に着手。生駒家では、父親の正と嫡男の一正が交互に高松城主と丸亀城主を務めた時期もあった。
元和一国一城令により、丸亀城は廃城処分となったが、生駒氏が御家騒動によって改易処分となったのち、寛永18年(1641)、山崎家治が5万3000石の領地とともに、丸亀城を与えられ、再建工事に着手した。
山崎家は三代・治頼(はるより)が後継者を定めないまま病没したことから無嗣(むし)断絶処分となった。万治元年(1598)、京極高知(きょうごくたかとも)が城主となると、以来、七代200年にわたり、讃岐丸亀6万石の領主として君臨をつづけた。
丸亀城では、石垣が三段に渡って積み上げられ、その総和は60メートルにも及び、日本一の規模を誇る。このような空前絶後の石垣を築いたのは、山崎家治なのだが、その名はあまり知られていない。
家治の祖父・片家(かたいえ)は、近江の六角氏の家臣であったが、織田信長に仕え、以来、山崎家は、信長・秀吉・家康と三人の天下人に仕えた。六角氏の本拠、観音寺城は、堅固な石垣で知られることから、山崎氏は、近江時代以来、優秀な石垣技術者を配下にしていたらしい。山崎氏が居城とした因幡若桜(いんばわかさ)城や肥後富岡(ひごとみおか)城は、堅牢な石垣が今日に伝えられており、名築城家であったと思われる。
山崎氏が断絶となったのは、あまりにも立派な城を築き、幕府ににらまれたからかもしれない。なお、石垣を築いた羽坂重三郎は、秘密保持のため、工事が完成したのち、井戸の底で殺害されたと伝えられる。このような悲劇的な語り継がれる一方、丸亀城の石垣からは、高度な技術に裏打ちされた機能美が感じられよう。
四国の大名は、すべて「よそ者」である。その原因を作ったのは長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)であり、四国統一の過程において、地付きの豪族たちが滅ぼされ、長宗我部氏もまた、元親の子盛親の代に歴史の表舞台から姿を消した。そのため、四国は、尾張出身の山内や、三河出の松平など、よそ者の占領統治をうけ続けた。
山崎家の断絶後、丸亀城主となった京極氏も、近江出身のよそ者だった。「佐々木源氏の名流」京極氏は、守護大名の座を失って没落したのだが、京極高次は、妹が豊臣秀吉の側室となった関係から、大津城主に取り立てられた。高次は、関ヶ原合戦では東軍に味方した功績により、若狭小浜へ加増のうえで転封。二代忠高は、将軍家光の従兄弟にあたることもあり、松江城26万石という国持ち大名へと出世したが、後継者を決めないまま病没。そのため、京極家は播磨龍野6万石へと飛ばされ、三代高和の代になり、ようやく安住の地、丸亀にたどりついたのだった。