×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

備中松山城(岡山県高梁市)~最高地点に残された最小の天守

名城の鑑賞術 第7回

無償同然で落札された“荒城”も今では「天空の城」として注目される

備中松山城の天守は、現存12天守のなかでも最小規模であるとともに、標高432メートルに位置し、もっとも高い地点に聳(そび)え立つ。だが、明治維新以後は、存在自体が忘れ去られ、本丸一帯は「荒城」へ化していった時期もあった。撮影/外川淳

 天守といっても、その規模は大小さまざま。備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)の現存天守の高さは、11メートルに過ぎない。

 

 現存する櫓(やぐら)のなかでもっとも大きな熊本城の宇土櫓(うとやぐら)は、天守よりも格的には下の櫓であるにもかかわらず、その高さは19メートルにも及ぶ。また、同じ2層でも江戸城の辰巳櫓(たつみやぐら)よりも備中高松城の天守は小さい。

 

 つまり、天守は大小によって名づけられるのではなく、それなりの定義があって天守と名づけられるのだ。

 

 江戸時代の備中は、小さな藩が乱立しており、そのなかでは松山藩5万石は最大の禄高を誇った。そのため、松山藩は備中国内において旗頭の地位にあったと考えられている。ほかの小藩の城や陣屋には天守を築くことが許されなかったのに対し、松山城には旗頭であることのシンボルとして、小なりといえど、城の中心に天守を建てることを許されたのだ。

 

 天守であるか否かの境目は、形や大きさというより、城主や城の格式によっていたといえよう。

 

 明治6年(1873)、備中松山城に対して廃城処分が下されると、城内の建物は、競売にかけられることになった。だが、高額な最低価格を設定すると、誰も応じなかった。5回目の告示において、7円という無償同然の価格で城下の呉服商が落札した。その結果、御根小屋(山麓の藩主の居館)の建物は解体され、建築資材や薪としてリサイクルされた。だが、山上の本丸の天守は、解体しても資材を山麓まで運ぶと、採算がとれなくなるため、そのまま放置された。

 

 今日に伝えられた12棟の天守のうち、松本城、彦根城、松江城では、競売で落札されても、保存運動によって解体の危機を免れた。だが、備中松山城の天守は、存在自体が忘れ去られ、本丸一帯は「荒城」へ化していった。

 

 昭和2年(1927)、高梁中学(現在の岡山県立高梁高校)の教諭が中心になって、倒壊寸前の天守を保存しようという運動が開始された。昭和14年には、保存のための工事が開始され、翌年には完了した。

 

 戦後の復興期を迎えると、城郭建築の保存方法は、試行錯誤を経験しながらも、確立される方向にあった。だが、戦前においては、補強のために鉄骨が使用され、壁や柱がペンキで塗られるなど、創建当時とは異なる工法で修復されることもあった。

 

 備中松山城の周辺は野生の猿が生息し、天然記念物に指定される。ただし、猿は天守にとって「天敵」であり、屋根に上り下りしたことから、瓦は落ち、壁の漆喰は剥がれ落ちた。昭和35年に完了した工事では、猿によって傷つけられた部分が補修された。

 

 平成9年(1997)、櫓や城門の再建工事が完了し、本丸一帯は江戸時代の姿を取り戻した。平成15年完了の天守の修復工事では、戦前において、近代的工法が使用された箇所が創建当時の状態に戻された。

 

 竹田城が朝霧によって幻想的な風景が演出されることで多くの来訪者を集めると、越前大野城などとともに、備中松山城もまた「天空の城」として注目されるようになった。本丸より東へ500メートルに位置する備中松山城展望台からは、朝霧発生の条件が整えば、晩秋から初冬にかけて絶景を一望することができる。

 

KEYWORDS:

過去記事

外川 淳とがわじゅん

1963 年、神奈川県生まれ。早稲田大学文学部日本史学専修卒。中世から近代の軍事史に造詣が深く、歴史ファンとともに古城、古戦場をめぐる歴史探偵倶楽部を主宰。主な著書に『地図から読み解く戦国合戦』(ワック)『戦国大名勢力変遷地図』(日本実業出版社)など。Yahoo! ブログ「もっと² 地図から読み解く戦国合戦」では、紹介しきれなかった写真や取材成果を掲載の予定。

最新号案内

歴史人2023年4月号

古代の都と遷都の謎

「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。