知られざる事蹟! 持統天皇の生涯と功績~孫の成人まで在位を続けた41代天皇~
天武天皇との愛を貫き愛息の子を即位させた謎の女性天皇・持統天皇の生涯とその功績
夫の残した事業を引き継ぎ いかんなく政治力を発揮した
古代の日本には、女性の天皇がいた。しかし称徳天皇以降、女性の天皇は江戸時代まで絶えてしまう。
なぜ古代に限って、女性天皇が立て続けに誕生したのだろうか。 その中のひとりで、多くの謎を秘めた持統天皇の生涯を紐解きながら、その偉大な事蹟を明らかにしていく。

持統天皇 歌川国芳の連作錦絵「百人一首之内」より。持統天皇が詠んだ和歌の数々は『万葉集』などに記載がある。早稲田大学演劇博物館蔵
持統天皇は、天智天皇の娘であり、夫は叔父である大海人皇子であった。天智天皇が亡くなる直前、大海人は 近江の都を去り、出家して吉野へ隠遁したが、持統天皇もこれに従った。その後、夫が吉野を逃れ挙兵した時も、彼女は夫の側にいた。
『日本書紀』は、「皇后は始めより今まで天皇を助けて天下を治めてこられた。常にその傍にいて仕えている間に、その発言は政治にも及び、助け補うところが多かった」と述べている。
天智天皇には中臣鎌足、蘇我赤兄といった有能なブレーンがいたが、天武天皇にはこれといったブレーンはいない。妻である持統天皇が相談相手だったのだろうか。
天武天皇は持統天皇の生んだ草壁皇子を皇太子に定めて亡くなったが、草壁には異母弟の大津皇子というライバルがいた。そこで持統天皇は、天武天皇崩御の混乱に乗じて大津を謀反の罪で逮捕し、処刑した。それでも草壁は病弱の為すぐには即位できず、結局持統天皇が代理をしている間に早逝し、彼女が翌年正式に即位する。息子の即位は叶わなかったが、持統天皇の次なる夢は息子の遺児である軽皇子(後の文武天皇)の即位であった。孫が成長するまでの10年間、彼女は皇位を守り15歳の孫に生前譲位した。
皇位を降りた持統は太上天皇となり、孫の後見役として、また事実上の最高権力者としての晩年の日々を送った。藤原京の建設、飛鳥浄御原令の制定、薬師寺の造営など、夫が未完に終わった事業を彼女は完成させた。藤原不比等を抜擢したのも彼女である。
その手腕は卓越したものがあるが、父天智天皇譲りの冷徹さもあれば夫譲りの度量の広さもあった。その遺体は天皇としては初めて火葬され、天武天皇の眠る御陵に合葬された。
監修・文/水谷千秋
(『歴史人』2021年6月号 「いまさら聞けない! 古代天皇と古墳の謎」より)