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日本シリーズとMLBチームとの親善試合の日程が重なる失態 「どんぶり勘定」の興行で、読売内部の不満もくすぶり始める

あなたの知らない野球の歴史


■「どんぶり勘定」で行われていた日米野球

 

 1953年、ペリー来航を記念して読売は日米野球を企画、MLBチームを招聘しようとした。ところが毎日新聞も同様な企画を立てていた。

 

 キャピー原田は、MLBのオーナー会議に出席して日米野球開催を説明、結局、毎日主催のエディ・ロパット投手(ヤンキース)率いる全米選抜はレフティー・オドールとジョー・ディマジオが率い、読売の招聘するニューヨーク・ジャイアンツ 1957年にサンフランシスコに移転)は原田が率いて訪日することになった。原田とオドールの絶頂期の年だった。しかし、同時に2つのメジャー・チームが来日するなど初めてのことだった。オドールや原田は戦後の野球ブームを見て、日本なら観客動員でビジネス的に成功すると思ったのだろう。

 

 予想通りというべきか彼らの事前の段取りは悪く、2チームの来日に際して、ペナントレースの日程が詰まり、日本シリーズとメジャー・チームとの試合日程が重なるという事態も発生した。当然どの試合も観客は満杯にならない。選手の出場過多、リーグ戦の軽視、日本シリーズが日米野球の添え物のような事態になった。川上哲治は「毎年ように来られると、ファンのためにはいいか判らんが、我々の大切なペナントレースが無茶苦茶なスケジュールに組まれる」と不満をぶつけていた。鈴木もこのような日米野球に不満だった。

 

 ところで来日したN・ジャイアンツには、デビュー間もないダリル・スペンサーがいた。オールドファンなら馴染みの深い選手だろう。巨人との第1戦では、スペンサーはホームスチールを成功させ本場仕込みのプレーを見せて観客に強烈な印象を残した。それから11年後の1964年、彼は阪急ブレーブスに入団、セカンドを守っていたロベルト・バルボン(軽妙な大阪弁を操る助っ人外人選手だった)に代わって正2塁手となった。スペンサーは相手投手などの癖を見抜く長所があり日本野球では評価は非常に高い。このとき阪急は南海と熾烈な首位打者争いを演じたが外国人選手に勝たせたくないとする球界の風潮があり、彼に対し露骨な敬遠策がとられたことでも知られている。彼のように訪日したことで日本球界に関心を寄せる選手も存在したのである。

 

 そして翌1954年初めディマジオとマリリン・モンロー夫妻が来日して野球教室など開いたが、日本では大歓迎だったが、さすがの鈴木はついに「もう来てもらいたない。厄介だ」と話すほどだった。やはり読売の資金が使われ、内部では不満も広がった。この秋には巨人のオーストラリア・フィリピン遠征、翌年春には原田のイニシアチブで中南米遠征も実行された。1950年代初頭は反正力派の影響で、読売主催の日米野球はかなりの「どんぶり勘定」で遠征が行われていたのである。しかしこの状況は長くは続かなかった。

 

 1955年は読売には大きな分岐点 になった。2月に安田庄司が病死、同月には衆議院選挙が行われ正力松太郎は初当選(富山県)したのである。彼の次なる目的は原子力問題だった。彼は国会議員になることによってビジネス的野望を実現しようとしたのである。ただ彼は街頭選挙で頭を下げることをしなかった。国家のために働くのにそれは必要ないというのだ。そうでなくても地元での人気はない。今では信じ難いが、球界はセ・パ両リーグの会長名で正力支援を打ち出し、富山からの応援演説の要請が来て藤村富美男ら球界、相撲界、作家など各界から有名人が富山入りして応援演説をしてようやく当選するという選挙だった。ただ同じ選挙区には松村謙三というリベラリスト、絶対的な政治家がおり、ついに一度もトップ当選にはならなかった。

 

 このなかで再び日米野球興行が浮上した。しかし、今回は前回の2チーム訪日問題に鑑み、米フリック・コミッショナーから日本側の窓口を1本化するようにクレームがあった。フリックは、ジャッキー・ロビンソン問題では人種偏見と戦う姿勢を見せた行動的なコミッショナーである。そのフリックは興行に理解をみせていたが、日本側がコミッショナーはなく読売と毎日の興行に不信感はあったようだ。

 

 同年ヤンキースガ来日した。ミッキー・マントル、ヨギ・ベラ、ドン・ラーセンら一流選手が素晴らしいプレーを見せた。

 

 同年12月だった。鈴木惣太郎は読売に呼び出された。読売の重役はオドール・原田の路線は金銭的に問題があり、内容が不明朗と批判が始まり、さらに2人を使うことは自由だが「仕事の内容に触れさせぬ」ということも付け加えた。この問題は安田の死去と無関係ではない。最後まで球界に残っていた安田の威光は原田やオドールに引き継がれたが、それが彼の死去で状況が大きく変わり始めたのである。

 

 

 

後楽園球場の外観/国立国会図書館蔵

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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