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「野球統制令」がプロ野球球団設立の追い風に!? 第2回日米野球開催を祝うように「皇太子誕生の号砲」が鳴る 

あなたの知らない野球の歴史


■ベーブ・ルース招聘に社運をかけた読売新聞

 

 ベーブ・ルース招聘問題で読売は2つの事態に直面することになる。第一は、ハーバート・ハンター仲介による第1回日米野球の成功で、彼が第2回日米野球を目論み、再び東京六大学野球連盟側に働きかけていたこと、第二は、このころ学生野球の応援などがエスカレートして学業がおろそかになるという事態も生まれ文部省と連盟側の協議により、1932 3月に「野球ノ統制並施行ニ関スル件」(いわゆる「野球統制令」)が制定されたことである。

 

 この野球統制令は球界に衝撃を与えた。日米野球興行で特に問題になるのは、アマチュア選手とプロ野球選手の対戦は不可という規定だった。つまり次の日米野球では学生や社会人選手は日米野球に参加できないということになる。日本にはまだプロ野球が根付いていない。そこで連盟側は訪日したハンターと共に文部省に働きかけて日米野球には特例を認めるように依頼したのだが、結局、これは不調に終わる。 

 

 これに対し読売側は苦戦していたプロ球団結成のまたとない好機になった。プロ球団に所属すればベーブ・ルースら一流選手と対戦できるかもしれないのだ。沢村栄治もビクトール・スタルヒン、水原茂ら有名選手が大日本東京野球倶楽部に入団していくのもレジェンド選手との対戦の誘惑を断れなかったのである。因みにこのとき、日本で最初のプロ契約は早大OBの三原脩といわれている。

 

 しかし、次回の日米野球の目玉になるベーブ・ルースは、依然として来日は未定だった。鈴木は、翌1933年8月オドールに対し「次のメジャーリーグチームにはベーブがいなくてはならない。君はもしベーブが来なければ、正力氏が提案(訪日)を拒否するであろうことは考慮しなければならない。私達はこの特別な問題の返事を待っている。読売は君が日本にチームを連れて来たら、¥100,000の支払いを保証するだろう。」と脅しともつかない連絡をしている。

 

 読売はまさにルース招聘に社運をかけていたのである。オドールもまた必死だった。なにしろ日米野球の窓口が従来のハンターからオドールに転換する分岐点になろうとしていたからである。

 

■平成の天皇誕生日と日米野球契約日は同じ日

 

 ともあれ野球統制令は思わぬ順風になった。読売は、ハンターとは協議せず1933年12月末、オドールを日本に招き、ついに1934年秋の第2回日米野球の契約を成立させた。それはまさに明仁皇太子(平成の天皇)が誕生した19331223日だった。その直後、鈴木とオドールは、銀座を歩きながら皇太子誕生の号砲を聞くことになる。

 

 まもなく読売は秋に行う日米野球に最強の米選抜軍が来日すると宣伝を始めた。ベーブ・ルースも帯同するかのような記事も加わり、7月に入ると彼の活躍、また次代のホームラン打者ジミー・フォックスなど主力選手の紹介が連日のように掲載されていた。ルース来日はまだ決定していないという中での見切り発車である。これが失敗したら読売は致命的な損失を受けるという綱渡りの状況が進んでいた。

 

 さて、鈴木はルース説得と選抜チームに帯同して訪日させるため9月半ばに訪米、24日にサンフランシスコに到着した。全米軍がアメリカを離れるわずかひと月前である。ルース訪日はまだ決まっていなかった。鈴木は急いでニューヨークに行き、オドールと協力してルース説得に尽力する。しかし、ルースも多忙で話す機会がなかなか取れない。

 

 ある日、ルースが、理容室に入ったということをオドールから聞くとそこへ鈴木は駆けつけた。ここは有名な場面だ。ルースはいろいろ釈明しながら訪日に難色を示した。鈴木は手にしていたルースが描かれているポスターを見せながら「日本のファンがあなたを待っている」(鈴木の書信)と話し、ニヤッと笑って快諾したというエピソードである。あまり知られていないが、最後にポスターを見せてルースを口説き落としたのは鈴木だった。

 

 彼は早大を病気中退、後に大倉商工に入学、卒業後に絹織物を扱う小松商店に入社、ほどなくニューヨーク支店に配属された。これが、彼の人生を変えた。お昼までに貿易業務を終えると、そのままメジャー野球を観戦、そのころはニューヨークにはヤンキース、ドジャース、ジャイアンツという名門球団が3チームも存在し連日観戦に出かけて目を肥やしすっかりメジャー野球通になった。さらに合間をみてコロンビア大学の講義を聴講して英語力を磨いた。この経験がその後の巨人の日米野球交流、またドジャース招聘に欠かせない人物になる。

 

 鈴木は、すっかりルースと意気投合して、その後彼とワールド・シリーズまで観覧している。訪日を楽しみにしているルースを見た鈴木は「ベーブ・ルースは日本のファンに大ホームランを打ってみせると張り切っているから、必ずすばらしいことをやってみせるに違いない。」(鈴木の書信)と本社に書き送っている。全米選抜軍の総監督はアスレチックス監督のコニー・マック、監督はルース、一行がサンフランシスコを離れる前、ルースは選手全員の前で、メジャー野球の神髄を日本人に見せることを宣誓、選手たちも宣誓し、物見遊山に終わらないように述べている。

 

 一行は、来日して銀座をパレード、当時のアルバムにはルースが喜色満面でオープンカーに乗車する姿が印象的だ。ともあれ帝国ホテル付近まで数十万の大衆が押し寄せる歓迎ぶりだった。

 

 日米野球は11月4日始まった。ルースは引退寸前、しか、並の大物選手ではなかった。計18試合で、チームは合計47本を放ったが、彼は打率40813本ものホームランを打っている。とても引退間際の選手とは思えない活躍だった。神宮球場のセンターボード直撃のホームランには大歓声だった。雨が降れば傘をさしてライトを守り、タイムを利用してスタンドに入り観客にサインをするというサービスぶりも好評だった。

 

 一方、読売やオドールに完全に出し抜かれたハンターは、ハーバート大学野球部の一団を帯同して8月日本にやってきた。まさに野球統制令に従う学生野球交流だった。

 

 さて、日本人選手の練習ぶりにアドバイスしたのもルースたちだった。沢村栄治など試合前に黙々投げ続け、球数の多さを指摘されて少なくするように言われている。このアドバイスが功を奏したのだろう。

 

 1120日、伝説は草薙球場で生まれることになった。京都商業を中退した当時17歳の沢村投手はベーブ・ルースら主力選手から9奪三振、1試合平均11点を奪っていた強力打線は沈黙、7回にルースが沢村の変化球の癖を見抜き、アドバイスを受けたゲーリッグがライトスタンドにホームランを打ち込んで、この1点で日本チームは敗戦となった。スクールボーイ沢村が一躍有名になった試合でもあった。

 

 この興行に成功した読売新聞の販売数は右肩上がり、以後日米野球について読売がイニシアチブを発揮するきっかけにもなった。また日米野球終了後の同年1226日、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が誕生することになる。オドールは巨人の顧問に就任、鈴木も巨人の幹部になり、市岡忠男・浅沼誉夫の2人は初代総監督、三宅大輔が初代監督に就任した。かくしてベーブ・ルースは巨人誕生に多大な貢献をするという歴史的功績を残して帰国した。

 

 

甲子園球場に立つベーブ・ルースの記念碑

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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