弱小だった読売新聞が「MLBの大物を招聘」できたのはなぜか? 日米野球を成功させた正力松太郎の政治センス
あなたの知らない野球の歴史
■外務省は日米友好親善に寄与すると判断
正力松太郎は1924年1月、虎の門事件といわれる皇太子狙撃事件の責任を取って内務省を退官、その直後、読売新聞を買収して実業界に転身した。彼には商才があったようで、知識層を対象とした新聞を大衆紙に衣替えし、囲碁、将棋、小説、娯楽ものが紙面を飾り見事に販売部数拡散に成功した。
さらに正力は、大阪朝日新聞や大阪毎日新聞に対抗するためスポーツにも力を入れ始めた。おりからMLBではヤンキースのベーブ・ルースが多くのホームランを放ち日本で大きな話題になっていた。これを知った正力は日本に彼を招き日米野球を開催して新聞拡販の一助とするプランを立てることにした。興行師・正力の面目躍如だった。
しかし、相手はMLBの大選手、それもベーブ・ルースとなれば莫大な資金が必要となる。弱小新聞が簡単に招聘できるものではない。そこで正力は、外務省の協力を得ることを考えた。当時は、濱口雄幸内閣時代、外相は幣原喜重郎、おりしもロンドン軍縮交渉がまとまり国際協調路線を堅持していたころだった。
さて、外務省の史料には驚くべき内容の電報が残っている。幣原外相は、在ニューヨーク澤田節蔵総領事に対して送った電報がそれだ。読売が「近時異例なる発展を遂げ正に国民、時事を凌駕すべきスタンディングを有し居り」と持ち上げつつ、そこで同紙が「『ベーブ・ルース』外15・6名(以下は二流選手にて差し支えなし)よりなる職業野球団」を招きたいとのことで協力されたい旨の電報を送っている。読売という新聞社が企画した日米野球興行を外務省が公共の電報を使用してサポートしていることや、外務省が一新聞社のために電報を送るなど驚きを禁じ得ないが、それだけではない。さらにベーブ・ルース以外は「二流選手にて差支えない」という外交電報らしくないビジネスライクな文面にも驚かされる。理由は簡単で、読売にルースを招くだけの莫大な資金はなく、そのため他の選手は無名でいいということだった。それにしても外相がべーブ・ルースを招くため自ら総領事に協力をするよう打電するなど今日では考えられないことだ。
外務省が読売にここまで協力することを考えると、濱口政権が日米関係の維持に並々ならない期待を持っていたことも伺える。また他にも理由はあろう。新聞社は海外特派員の制度が不十分で新聞社は外務省を頼るほかはなかったこと、さらに日本の中国や満州における関与に不信感が大きくなっていたこと、また海軍の補助艦に関する軍備縮小条約として知られるロンドン海軍軍縮条約の調印に濱口雄幸政権が尽力しており、ルースの訪日で日米友好親善に寄与するとの判断があったようだ。すでに日米野球でアメリカと交渉していた毎日にも呼び掛けて東京地区は読売、大阪地区は毎日という分担になった。
ところが、問題があった。ルースを招聘するときは、ルー・ゲーリッグも帯同するという条件がついていたのである。そうなると読売はさらなる資金が必要となる。読売はゲーリッグを優先して、ルース招聘を断念するほかはなかった。
またルースは近いうちの引退を見越して監督業に強い関心があり海外遠征にはあまり関心がなかったというのが結論だったようだ。読売も単独では強豪選手を含むチームを招聘する経済的余裕はなく、周りのアドバイスもあり、大毎と協力することになった。
さて、MLB「選抜軍」は鉄人ルー・ゲーリッグ、レフティー・オドール、剛速球投手のレフティー・グローブなどそれでも歴代最強に近い選手をそろえて来日した。日本側は慶大の水原茂、法大の苅田茂徳、早大の三原脩など東京六大学野球の有名選手を集めた一団、八幡製鉄など一部社会人選手も含まれていた。
1931年11月7日から始まった日米野球は24試合で全米チームが23勝1分け、まさに圧勝、全米チームは実力を遺憾なく発揮した。ラジオではJOAK(NHKラジオ)が実況中継している。
ある試合では、日本側にリードされながら全米チームが逆転してマウンドに上がったレフティー・グローブは、スモークボールと言われるほどの剛速球を投げ込んだ。その彼の全力の投球を見せて観衆を驚かせた。JOAKのアナウンサーは絶叫した。
「グローブ、投げました。あっ、球が速くて見えません!」
終盤の3イニング、全員を三振に仕留めて実力を見せつけた。読売の第1回日米野球は 正力の思惑通り成功に終わった。

ベーブ・ルース(左)とルー・ゲーリック(右)1927年5月6日。National Archives at College Park