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戦争に散った巨人第1期黄金時代の強肩捕手「吉原正喜」─手榴弾の遠投で敵兵を倒す

戦火と野球


■巨人の4連覇に貢献した強肩・俊足の吉原

 

 熊本工業(以後、熊工)出身のプロ野球選手は相当な人数になる。西武の伊東勤、阪神の後藤次男、田中秀太、広島の前田智徳など著名なOBが多い名門高校で夏の甲子園に合計23回出場、53試合で3023敗。残念ながら優勝はないが準優勝が3回という輝かしい成績おさめている。

 

 1937(昭和12)年の第23回夏の甲子園は、全国654校から22校が出場している。主だった学校は、奥羽から秋田中学、東京から慶応商工、南関東の浅野中学、東海から中京商業(以後、中京)、京津から平安、大阪から浪華商(浪商)、兵庫から滝川中、四国から徳島商、南九州から熊工といった強豪が甲子園に集まっていた。熊工と中京は勝ち進んで決勝へ進んだ。

 

 熊工のバッテリー、投手は川上哲治、捕手は吉原正喜、中京は野口二郎、捕手は松井勲のバッテリーだった。決勝戦は、川上は3点を奪われ結局3対1で中京が優勝した。熊工は1934年に続いての準優勝だった。

 

 因みに優勝した中京は、翌年春の選抜大会では、野口二郎投手が4試合連続完封勝利をして選抜記録を成し遂げ夏春連続優勝という快挙を成し遂げている。その後、野口は法政大に進学、しかし中退して東京セネターズに入団した。活躍はその後も続き一年目33勝、二年目も33勝と破格の成果を残している。野口の剛腕、吉原の強肩は大会のハイライトだった。

 

 吉原は2年生になって川上とバッテリーを組み知名度は全国に広がった。

 

 「巨人創設者の一人、鈴木惣太郎は、このころ選手スカウトの役割を担っていた。非常時状態が蔓延しており各チームは選手の応召が増え慢性的に選手不足だった。巨人は九州の熊工吉原に注目していた。このあたりは鈴木の史料が背景を説明している。熊本に向かい、まず吉原獲得に動いた。慎重な彼が重視したのは熊工野球部のOB会長への根回しだった。彼と話し合い、了解を得ると今度は当地で川上が門司鉄道管理局に入社する話を聞くことになる。熊工の校長は、川上家の家庭の窮状を吐露しており、鈴木は予定を変更して吉原と川上のバッテリー二人を獲得することになった。鈴木は「日記」に「これで九州は一挙に巨人の影響下に入った」と得意げに書いている。

 

 吉原たちの同期入団には、松山商業の千葉茂、高知商業の岩本章、滝川中学の三田政夫など花の13年組と言われる世代になる。吉原は早々とレギュラーを勝ち取り1935年には35試合で34試合に捕手として出場している。性格は真面目な川上とは対照的で、強くはないが酒を好み豪放磊落なタイプで給与は飲食に使ってしまうタイプだった。

 

 1941年開幕を控えての巨人の激励会が開かれ、その席で吉原は「昨年までキャッチャーをやっていた吉原ですが、今年から捕手に転向します」と話し、周囲の笑いを誘った。敵性用語に対応した吉原ならではの回答だった。

 

 吉原はビクトール・スタルヒンや沢村栄治などの投球を受けて投手陣を牽引、足も速く盗塁数も多かった。1938年から1941年の巨人の4連覇に貢献した。直後に久留米第48連隊に応召されて同年に退団している。連隊はビルマ(現在のミャンマー)に派遣され、同地では、巨人で彼の前の捕手だった長崎商業出身だった内堀保と、また投手の久留米商業出身の川崎徳次と会っているが、詳しい内情はわからないが、九州で巨人の影響力を強めたことを鈴木が述べているのもよくわかる。

 

 一方、ビルマ方面の日本軍はインドから雲南を経て中国に送られる物資援助ルート(援蒋ルート)を遮断しようとした。インド独立の画策と援蒋ルートを遮断するべく、第15軍はビルマからインド北部を目指して進軍した。これが悪名高いインパール作戦で、19443月から7月まで行われた戦闘である。だが密林突破を目指す牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の強硬な作戦は失敗、特に撤退では、白骨街道と呼ばれるほど多くの犠牲者を出すという結果に終わった。この作戦の失敗で雲南方面の日本軍は窮地に陥った

 

 19425月にすでに日本軍は雲南に侵入して勢力圏を拡大していた。ところが米軍の要請もあり中国軍精鋭部隊が同地域に投入され、1944年の6月から8月にかけて激戦が繰り返された。久留米連隊は拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)の方面で中国軍の猛攻に遭遇、日本軍は多くの死傷者を出している。この地で手榴弾で奮闘したのが吉原軍曹だった。しかし、圧倒的な中国軍の猛攻のより同地で日本軍は玉砕、吉原は19441010日に亡くなっている。25歳だった。

 

 吉原の通算試合は、わずかに339試合、9本塁打、打率239厘である。その後川上は巨人の監督に就任、吉原の遺志を継ぐことになった。

 

 2008年夏、熊本工野球部グラウンドのバックネット裏に、2人の活躍を称えるため川上と吉原の像が設置された。

 

 

インパール作戦中の日本軍/国立公文書館蔵

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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