伝説の投手・沢村栄治は巨人軍に人生を狂わされた!? プロ野球投手最大の栄誉である沢村賞は、その「償い」のために設立されたのか⋯
戦火と野球
■本来は大学進学を希望していた沢村栄治
沢村栄治(1917~1944)、彼の背番号14は巨人の永久欠番であり、さらにシーズンで最高の先発投手の成績を残した選手には沢村賞が授与される。だがこれは1947年に読売新聞社が制定したものだ。今日、沢村栄治の名は巨人だけではなく、プロ野球全体のレジェンドというべき選手としてその名誉を称えられている。だが 彼の球界伝説には、特に日米野球交流や戦時中の行動、巨人退団後の動静などまだまだ明らかではない部分もある。
京都商業に在学中のころ、沢村は夏の甲子園の終了後、ゆくゆくは慶大野球部に入り、早慶戦で投げてみたいという希望を抱いていた。1934年沢村は春と夏に連続して甲子園に出場、ある予選の試合では27個のアウトの中で23個もの三振を奪う快投を見せつけた。この当時、彼は慶大野球部の名伯楽といわれた腰本寿(こしもとひさし)監督の指導を受けていて卒業後、慶大野球部に入り、早慶戦で登板する夢を持っていた。
ところが大学野球の夢は思わぬことで頓挫する。おりしも1934年秋にベーブ・ルースが来日するという日米野球興行の話を読売の運動部部長で前早大野球部監督市岡忠男から聞かされることになる。市岡は腰本監督を説得し、他方で沢村に支度金を用意して、新設のチームに参加(京都商業中退)してルースとの対戦を熱心に話して口説き落とすことになる。
余談になるが、慶大には、一部にまことしやかな都市伝説がある。稀代の名投手沢村栄治、次は昭和の怪物江川卓、近年では中日ドラゴンズに入団した豪速球投手の髙橋宏斗といずれも獲得を逃しているのだ。彼ら3人が入学していれば優勝回数はライバル早大を遥かに上回っているだろうということである。しかし沢村は巨人に奪われ、さらに江川、高橋の二人は「慶大受験」という難関を突破できなかった。
さて、その後、沢村は1934年の日米野球に参加、大日本東京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)に入団することになる。このシリーズでは11月の草薙球場での伝説の試合が有名だ。先発した沢村は主力打者から次々と三振を奪い、合計9個。しかし、カーブを投げる時の癖をベーブ・ルースに見破られ、彼のヒントでルー・ゲーリッグが特大のホームランを沢村から放ち1対0で勝利の立役者になった。
日米野球終了後、沢村は1935年、1936年の巨人の渡米遠征に加わり、スクールボーイ沢村の名前はアメリカ側にも知られることになる。
しかし1937年に日中戦争が始まり、その影響はスポーツ、プロ野球界に大きな影響を与えることになった。沢村は慶大に入学せずプロ入りしたこともあり早くに応召されることになった。1937年春季に初代MVPに選ばれ野球人生は順調だったが、翌年1月徴兵され陸軍歩兵第33連隊(三重県)に入隊、中国に渡った。有名な彼は部隊の宣伝工作の一環として手榴弾投げの実演に駆り出された。そのためかなり肩を消耗し、さらにマラリアにもかかり、翌年帰国して巨人に復帰するが急速に技量は落ちていた。
1941年10月再び徴兵され、ほどなく太平洋戦争が始まり彼はフィリピン戦線に向かった。2年後の1943年1月帰国して巨人に復帰、だがこのとき肩は壊れ以前のような力投はできず、サイドスローに転向、さらに打者も兼ねていた。この年、彼は0勝4敗でシーズンは終わった。同年10月24日の対阪神戦、青田昇の代打が最後の出場だった。
翌年初め、沢村は巨人の球団事務所にて戦力外の通告を受けることになる。その帰りかつて、市岡と共に沢村のスカウトに協力した鈴木惣太郎に面会した。鈴木は「巨人の選手で終わるべきだ」と述べて引退の道をアドバイスしている。沢村を知る鈴木には、彼が他球団で投げる想像はつかなかった。その後、彼は南海に誘われているが、入団云々は明確ではない。
1944年10月、沢村は再び徴兵され12月2日、フィリピンに向かった。だが屋久島西方沖で米潜水艦の雷撃を受けて乗船した輸送船は沈没、彼は戦死している。まだ27歳という若さだった。
本来慶大野球部に入り早慶戦で投げたかった沢村だったが、巨人に入団、最期は輸送船沈没で亡くなったことに対し、戦後沢村の父親は市岡に面会して巨人の対応、息子の退団や非業の死に対し読売側の姿勢を厳しく批判している。鈴木が「日記」に遺族の追及を書き残していることから状況がわかる。読売本社で父親に対面した鈴木も父親の主張に同情を禁じ得なかった。市岡は責任を回避し、対応に追われた鈴木は沢村の郷里伊勢市に墓碑をつくること、また残された弟などの就職の世話をしている。
プロ選手である以上、戦力外通告など当然の話だが、京都商業を中退させ、大学進学を巨人入りに変更させ、3度も戦線に送り出されて亡くなった。しかし、井戸を掘った選手に対して読売側の対応についてもう少し配慮した対応もあったのではというのが率直な感想である。沢村の永久欠番の決定は戦後のこと、さらに沢村賞は、1947年に読売がイニシアチブを取り制定された。しかし、草創期の巨人投手陣を支えながらも安易に戦力外通告を行い、さらには悲運の最期を遂げるなど過去の経緯を考えると沢村賞は読売側の贖罪の証とも言えるかもしれない。
伊勢市の彼の墓は今は「墓じまい」の法要を終えて、彼の墓は東京の親族の墓に合葬されていて、前の墓には記念のボールの石碑が置かれている。

太平洋戦争などで亡くなったプロ野球人の名が刻まれた「鎮魂の碑」。沢村の名も刻まれている