「東京ドーム建設」は新宿のはずだった? 大手建設会社を叱りつけた、読売の総帥・正力松太郎の大いなる野望
あなたの知らない野球の歴史【第6回】
■世界一の球場になるはずだった正力ドーム
1958年6月10日のことだ。日テレの清水与七郎社長が新宿に屋根付き球場(ドーム球場)の建設を発表した。読売の総帥正力松太郎は、都心の球場不足をこれで解決する予定だった。このドーム球場は、野球場のみならず世界一のスポーツの殿堂として各種競技、演劇の舞台やスタジオの設置など多目的室内施設として開設するプランだった。現在の東京ドームは1988年3月に完成しているので正力ドームはそれより30年も前の話である。
さてこのドーム球場、1960年完成予定、収容人数8万人、建設費50億円という大規模球場で、完成すれば”世界初のドーム球場”という触れ込みであった。ワンマン正力松太郎が喜ぶシナリオだった。設計は大成建設、清水建設、鹿島建設の三社が担当になり、同時に建築工学の権威だった平山嵩(たかし)・武藤清東大教授が中心に有識者5名を集め1959年8月、顧問会議を組織された。読売内に模型のドーム球場が設置され、毎回、議論は白熱していた。
正力はドーム球場建設に非常に乗り気で、頻繁に顧問会議に出席した。技術的課題が多くなかなか進展しなかった。しかし、そこは正力、ある会議では、会社側の説明の要領が悪いと「我々に怒って大成建設をしかりつける始末で、私の左手に並んだ平山博士以下四名、震え上がった」と同席した鈴木惣太郎は「日記」に書いている。かなりの剣幕で話したのだろう。鈴木自身も知っているとはいえ、尋常ではない正力の怒りはよくあることだった。御前会議のような緊張感で正力のワンマンぶりは遺憾なく発揮された。
ほどなく正力はMLBのブルックリン・ドジャースがドーム球場の建設構想を知ることになる。ウオルター・オマリーがドジャースのオーナーとなったのは1950年、このとき古くて手狭になったエベッツ球場(3万3千人収容)を解体してドーム球場を建設、併せてブルックリン地区の再開発プランをニューヨーク市側と交渉していた。しかし、進展せず、これによってチームがロサンゼルスに移転することになった。ドジャースのドーム構想はこれで頓挫することになる。ロサンゼルスでは雨があまり降らず、結局、オマリーは通常の球場を建設することになる。
ところで、正力はドジャースのプランを知るとすぐさまパイプのある鈴木を渡米させ、オマリーからドーム球場の問題点を確認させるが、オマリーは読売側にドーム球場の内容を書簡で伝え、さらに鈴木にドーム球場の設計図まで手渡し、顧問の一人にドームについての書簡を送るなど実に懇切丁寧に対応している。またドーム建設の権威と言われたバックミンスター・フラーを紹介した。フラーといえば後に読売に招かれて来日するが「宇宙船地球号」のフレーズをつくった発明家、建築家として世界的に知られている。
ドーム建設にはやはり技術課題も多く、特にドーム内の空気や風の循環が大きな課題になっていた。
正力ドームは結局、技術的課題が解決されない中、1962年、映画人の永田雅一が東京スタジアムを自力で建設し、都心の球場不足はまずは解決され、ドーム球場構想は中止することになる。まさに幻の東京ドームという話になったが、テレビ事業、プロレス事業、原子力事業など正力は衆議院議員となって政治的野望を実現していく推進力は世界初のドーム球場にはたどり着かなかった。他方、ドーム球場はエア・ドーム球場に志向が移り現在の東京ドームに進化していくことになる。

新宿イーストサイドスクエアが建つあたりが、正力ドーム建設予定地だった。写真/AC