「日本プロ野球生みの親」×「読売の総裁」×「ドジャース」 スタジアムに置かれた石灯篭にまつわる日米の深い歴史
あなたの知らない野球の歴史【第2回】
■スタジアム入口に設置した石灯篭は日本へのリスペクト
2024年10月31日、ドジャースはヤンキースを破ってワールド・シリーズを制した。通算8度目の優勝である。大谷翔平に続いて山本由伸の2人の日本人選手がロサンゼルス・ドジャースでデビューした記念の年でもあった。著名な日本人選手の入団ということで、同年のドジャースはMLBで最も注目される球団の一つになった。
さて、同年3月27日の本拠地開幕戦に合わせて、ドジャースは過去に日本から贈られた大きな石灯篭をスタジアム入り口に設置した。いかにも日本をリスペクトした振る舞いである。しかし、この石灯篭がなぜ今までドジャー・スタジアムの庭園にあったのか、それを知る者はあまりいないだろう。
1962年4月9日のことだ。ニューヨークから本拠地をロサンゼルスに移したドジャースは新スタジアムの開場式に、読売新聞(以下、読売とする)を代表して鈴木惣太郎夫妻がドジャースに招待した。彼は、1934年にベーブ・ルース来日に尽力し、さらに読売の総帥正力松太郎と共に巨人創設者の一人でもある。戦後ドジャースの興隆期に読売は遭遇、巨人はドジャースにベロビーチ・キャンプなどで大きな協力を得ることになる。鈴木は招かれたお礼として清水組石材工業(愛知・岡崎市)に石灯篭の製作を依頼した。これが前述した石灯篭である。石灯篭には「1962年4月9日のドジャー・スタジアム開場を記念して」と刻まれている。この石灯篭は日本ではなじみのある春日型で、高さ2・4メートル、重さ約1・8トンというかなりの大きさである。
制作者は日系人の稲村ミッチによるもので、ドジャー・スタジアムの日本庭園の中に石灯篭が設置された。さらに鈴木惣太郎の友人、フランク・江籠(えご)・与春(くみはる)によって桜の木々が植えられて庭園は整備された。同庭園はドジャースのオーナーのウォルター・オマリーと鈴木惣太郎との親交の証でもあり、いわゆる「ソータローガーデン」とも言われている。このいかにも日本的な光景は当時のドジャー・スタジアムにはミスマッチなものだったかもしれない。しかし、それだけに意味のあるものと理解する必要がある。
■先人たちの活躍がいまのドジャース人気を生み出した
1961年末、ドジャースのオマリー会長は,本拠地をロサンゼルスに移して新球場がようやく完成は近づき、日本から読売新聞の代表として鈴木惣太郎を招くことにした。翌年4月1日、ドジャー・スタジアムの開場記念前にオマリーは関係者を招いてのパーティーを開いた。席上オマリーに促され、鈴木は英語でスピーチをして拍手喝さいを浴びている。かつて貿易商社マンだった鈴木の面目躍如だった。その後、鈴木を主賓にジャパニーズ・ナイトの催しもあり、彼はドジャース側から最大級の歓待を受けた。そこで鈴木はオマリーにお礼として石灯篭を贈りたいと話して許可を得ている。これが冒頭に紹介した石灯篭である。1964年の東京オリンピックの2年も前、今から65年も前のことである。ドジャース・オーナーと読売巨人とのパイプを開いた先覚者たる鈴木は、同球団の協力を得て巨人のV9に多大な貢献することになった。
ドジャースが昨今、日本で広く知られるようになったのは野茂英雄の活躍からだろうが、それよりも昔に井戸を掘った人物がいたである。本年も大谷はホームランを量産しているが、先人たちの尽力は、野茂英雄を筆頭に石井一久、木田優夫、中村紀洋、斎藤隆、黒田博樹、前田健太、ダルビッシュ有、筒香嘉智と数多くの日本人選手が入団した経緯と無関係ではない。
ドジャースは1883年の創立でMLBでは古豪の一つだが長期間、優勝はできず、初のワールドシーズ優勝はかなり時間が経過して1955年が初優勝、その後1959年、1963年、1965年、1981年、1988年、2020年、2024年と優勝している。このチームが強豪にいたった所以はそれなりの理由があるがそれはまた別途紹介したい。

石灯篭の前でスピーチするトミー・ラソーダ。現役時代につけた背番号の「2」はドジャースの永久欠番である イラスト/さとうただし