「ベーブ・ルース招聘」と「巨人軍創設」には密接な関係がある キーパーソンとなったのはレフティ・オドールと鈴木惣太郎だった
あなたの知らない野球の歴史
■メジャーに対抗するには日本にもプロ球団が必要
1931年の日米野球は大成功で幕を閉じた。読売新聞の販売数は急上昇、これに正力松太郎は大満足だった。ただ一つの問題はベーブ・ルースを招聘できなかったこと。彼を日本に招けば興行は大成功するとの思惑は確信めいていたものになっていた。
このとき米選抜軍の通訳をしていた鈴木惣太郎は、読売運動部長だった市岡忠男と相談して、彼らに対抗するには「日本もプロチームを組織するほかはない」と話していた。だが、当時は学生野球の全盛時代、プロ選手は「商売人」と呼ばれて低く見られプロ化は簡単ではなかった。ここで登場するのが米選抜軍の一人レフティー・オドールだった。彼は、メジャーチームを転々としながらジャイアンツで好成績を残していた。引退も近づいてたオドールは来日を機に読売側、特に鈴木と親交を深めた。鈴木もMLBの情報が欲しいため、彼と多くの書信を交わすようになる。
1932年1月19日、鈴木惣太郎は親交を深めたレフティー・オドールに書信を出している。
「プロ野球機構を立ち上げたいと計画中だ。私の友人3人以外今は誰も知らない。事がスムーズに進められたら、アメリカから道徳的サポートや助けが不可欠だから君を頼りにしている。しかし、正式に発表するまでは秘密にしてくれ。直木氏やハンター氏にもこのことは話さないでくれ。」
大日本東京野球倶楽部(現在の巨人軍)が創設されたのは1934年暮れ、それより2年以上前にプロ球団創設に鈴木は動き出していたことになる。文面にある直木氏とは直木松太郎、慶大野球部の草創期を支えた人物だ。ハンターは、ハーバート・ハンター、MLBの選手から日米野球のアメリカ側の興行師になっており、1931年日米野球の米選抜軍の窓口である。この書信を見れば、鈴木はハンターを外して新たな窓口に親しくなったオドールにチェンジしたことがわかる。
新球団(後の巨人)を創設するには時間がかかった。まずは資金集めになる。読売の正力松太郎を通じて東京の財界人に声掛けしたが、これが予想外に苦労している。プロ球団の意味がまだ大衆や財界人に浸透していない時代、資金集めは時間を要することになった。しかし、その間にも、鈴木はオドールから送られてくるメジャー野球情報をこまめに読売新聞に掲載して環境づくりを熱心に行っていた。
鈴木からいい感触を得ていたオドールも「また来年日本へ行きたい。もしクラブで行けなくても、たぶんコーチなら再び行けると思う」と売り込んでいる。鈴木にしてみればMLBの情報を引き出せること、オドールには、再度訪日して仲介者として名を売りたい、両者はウィン、ウィンの関係になっていた。
それも足りないと思ったのか、オドールは、3月には「もし、ベーブ・ルースを連れて行けたりしたら、日本野球界にとって、とてもすばらしいことだと思うんだ。時間があるうちに話してくれれば、僕が彼とマネージャーに話し、日本へ彼が旅するよう説得してみる」と鈴木に連絡した。
1931年の日米野球ではベーブ・ルースを呼べなかったが、オドールはルースを説得できると連絡している。次回の日米野球の核にもなる話だが、彼を訪日させれば確実に日米野球の主導権はオドールのものになるという目論見だった。彼が球界で培ったコネクションを駆使すれば実現できると思っていたようだ。
オドールと鈴木の長期間の書信のやり取りでわかることは、ルース説得とメジャー野球を日本に紹介するという2点で、オドールの存在感が増していき、彼は読売の大きな信頼感を勝ち取り、日米野球の戦後につながる重要なキーパーソンになっていくということだろう。今日に至る日米野球のルーツは、まさにここに始まったといっても過言ではない。

1925年、グリフィス・スタジアムで3塁に滑り込むベーブ・ルース