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A級戦犯容疑で収監された「読売のドン」の鮮やかな復活劇 排除を目論む反正力派を一発で黙らせた“痛烈な皮肉”とは

あなたの知らない野球の歴史


■公職追放された正力松太郎

 

 敗戦後、戦争協力問題を追及され朝日新聞は役員の退陣を発表したが、読売新聞の総帥・正力松太郎は、重役全員の留任を発表した。この結果、読売内ではいわゆる読売争議が発生した。社内には共産党系分子も存在し、大きな労働騒動となった。これが2回も続き、ついにはGHQも介入する騒ぎになった。

 

 そのようななか、194512月、戦争協力により正力松太郎が戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監され、翌年1月に公職追放、19479月に不起訴で釈放されたが、彼の読売復帰は簡単ではなかった。戦犯時代から追放解除まで読売内では、反正力派が実権を掌握して、ワンマン正力が不在だったためだ。

 

 一方、戦後のプロ野球界は、混乱を極めていた。球場へ観衆が殺到して実業家たちは野球が儲かると思い込んでしまったようだ。実際は、球場確保、選手や職員への給料、チケット販売、リーグ戦の組み合わせ、正月興行、観客動員などあまりに仕事量が多かったが、一部の実業家はその世界に飛び込んでいった。

 

 こうした混迷の球界になか、日本野球連盟(日本野球報国会から改名)は戦前から球界を知る正力の権威を必要としていた。巣鴨プリズンから釈放された正力を、初代コミッショナーに任命して事態を収拾しようとしたが、簡単ではなかった。正力が率いていたはずの読売が正力に猛反発したのである。

 

 正力の留守中、彼のワンマンぶりに日ごろから閉口し、2度の読売争議から会社を立て直した幹部社員は読売だけではなく、プロ野球界からも正力を排除しようとしていたのは、当然の成り行きだったかもしれない。

 

 大映の永田雅一(19061985)社長の側近だった武田和義は「あのころの読売首脳部は、正力さんをどけちゃって、自分たちでやろうという気持ちがあった」と述懐している。東急の猿丸元は「あの当時は、正力反対、反対どころかパージですからね。読売の内部にも正力さんの復活という、そういうことがあっても困るという空気があった」と振り返っている。なかでも読売副社長の安田が「正力さんの言いなりにならんというところがあった」とも述べている。ましてやライバル新聞の毎日が球界に入ってきては困るという思惑もあった。

 

 読売は、19491221日付『読売新聞』に「安田副社長談」を掲載した。

 

「我々は、この前のオーナー会議で最初から正力さんのやり過ぎを遺憾に思っていた。しかし、もう役目が済んだと思うし、引っ込んでもらったほうがいいと思う」

 

 安田ら反正力派は、正力を完全に読売から追放する方策を考えた。正力のコミッショナー就任はパージ違反として辞職に追い込み、さらに読売では増資を目論んだ。1950年1月、読売の資本金を増資によって正力の影響力を離そうとしたのだ。反正力派の中心にいた安田庄司編集長、武藤三徳(みつのり)、四方田義茂などが巨人の実権も掌握していたのだが、彼らは増資で正力が資金集めに失敗すると思っていた。ところが、正力は、戦前からの財界人のパイプを使ってあっという間に資金を集めてしまった。

 

 こうなると形勢は逆転する。正力が読売に復帰するのは時間の問題になった。それは公職追放の解除のタイミングだった。1951年夏、正力はようやく追放解除となった。彼は読売の幹部社員を集めて懇親会を開いた。開口一番、正力は留守中の読売を支えた幹部にお礼を述べたのだが、それだけに終わらなかった。その後、正力の腹心となった柴田秀利は『戦後マスコミ回遊記(上)』でその時の安田の状況を詳しく記している。

 

 正力は立ち上がって「一言お礼を言いたい」と自身の不在中、読売のために献身的に働いた幹部社員に礼を述べたが、急に「安田君」と言い、「君は留守中、僕のことを正力、正力といつも呼び捨てにしていたというじゃないか」と問いただした。その迫力ある口ぶりに会場は静まり返った。柴田は「なるほどすごい男だな」と見ていた。「安田が畳に頭をこすりつけて『お許しください。ご勘弁ください』」と傍目にも痛々しいほどで、「奴隷化して見せない限り、許そうとはしなかった」と柴田は回顧している。そして「一筋縄ではいかぬぞと私は自らに釘を刺した」と自戒している。正力の威圧は一瞬で会場をおおった。カリスマ正力の復活だった。反正力派の勢いは一挙に消えてしまった。

 

 この模様を記した柴田ものちに正力の大番頭になったが、あるとき我慢できなくなって正力に諫言して退陣に追い込まれている。数日後、柴田は読売系のゴルフ場に出かけたが、彼のロッカーもゴルフ用具も消えていたというからなかなかの仕打ちである。

 

 かくして読売のドンは復活し、巨人も正力の影響下に帰することになる。これは彼の野球指南役だった鈴木惣太郎の読売復帰につながることになる。これが巨人の行く末に大きな影響力を与えることになる。本筋の野球とは少々離れた話だが、巨人は読売新聞の販売の中核だったことが権力闘争に巻き込まれる原因にもなっている。

巨人軍が本拠地とした後楽園球場/国立国会図書館蔵

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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