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“蒋介石の国民政府を相手にしない”国交断絶を宣言し世界各国との敵対をより深めた「第1次近衛声明」とはどのような経緯で発せられたのか⁉─日本の開戦までの8つの過ち【その6】─

太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜#07

 

■国交断絶を宣言し泥沼の日中戦争へ突入

 

近衛文麿/国立国会図書館蔵

 

 関東軍の軍事行動(満洲事変)は国際連盟で否決されたが、日本は連盟から離脱し、その後も満洲の侵略を続けたため、仕方なく中国の国民政府1933年3月、満洲国を黙認するかたちで塘沽停戦協定を結んで事態を終息させた。しかし、その後も日本は満洲国に隣接する華北5省に勢力を広げていった。こうしたなか、中国国内では激しい反日運動が高まっていった。

 

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋において日本軍の夜間演習後、陣地に銃弾が撃ちこまれた。日本軍はこれを中国軍の仕業とし、ただちに戦闘状態に入った(盧溝橋事件)。時の近衛文麿(このえふみまろ)内閣は、陸軍の要求により、大軍の派兵を決定した。

 

 すると、国民政府の蔣介石は、日本に対して徹底抗戦を宣言したのだ。これまで蔣介石は毛沢東率いる中国共産党との内戦を優先し、日本との衝突を避けてきた。だが、国民党内にも共産党と手を握り抗日統一民族戦線をつくるべきという意見が強くなり、方針を大転換したのだ。

 

 こうして始まった日中戦争は、日本軍が勝利を重ね南部にも戦線を拡大、上シャン海ハ イや南京を占領した。が、蔣介石は拠点を重慶に移して抵抗し続けた。この時期両国はドイツを仲介として講和交渉に入るが、それが決裂すると、近衛首相は「蒋介石の国民政府を相手にしない」と国交の断絶および抹殺を宣言した。第1次近衛声明と呼ぶが、相手国政府を否定したことで終戦の目途が立たなくなった。

 

 日本軍は総力を結集して諸都市を占拠していくが、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連がさまざまな道(援蔣ルート)で重慶の国民政府に物資を送ったので、戦争は長期化の様相をみせた。そこで日本は、国民政府のナンバーツー・汪兆銘を重慶から脱出させ、南京に政権をつくらせ、この政権と講和して戦争を終結しようとしたが、1940年3月に成立した汪の新国民政府は、期待したような全国政権とはならず、戦いに終止符は打てず、戦争は泥沼化した。

 

監修・文/河合 敦

歴史人2025年9月号『太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜』より

 

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