承認した日を「国恥記念日」とまで呼んだ⁉ 戦前に中国国民を憤慨させた日本の「21ヵ条」の無理難題の内容とは⁉─日本の開戦までの8つの過ち【その2】─
太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜#03
■中国の主権を侵害する「二十一カ条の要求」を提示
第1次世界大戦中の1915年、大隈重信内閣は中国の袁世凱政府に二十一カ条の要求を突きつけた。主に次のような内容だ。「日本がドイツから得た山東省の権益を継承するのを認める。ロシアから獲得した旅順・大連の租借期限や南満洲鉄道などの期限の99年間の延長。日本の官営八幡製鉄所に鉄鉱石を納入する漢冶萍公司を日中合弁にする。中国沿岸の港湾や島を他国に譲ったり貸したりしない。政治・財政・軍事分野で日本人顧問を招く。必要な地域の警察を日中合同とする。日本が指定した地域の鉄道敷設権を譲る」
中国の主権を侵害する要求ゆえ、袁世凱政府は二十一カ条の要求を拒否した。すると日本政府は、要求の一部を取り下げた上で、最後通牒を突きつけたのである。戦争を辞さないという態度を見せたのだ。
仕方なく袁世凱は要求を受諾した。中国の国民はこの5月9日を国恥記念日とし、中国内で反日運動が拡大していった。 大戦の混乱に乗じた無茶な日本の外交に対し、列国はこれを黙認したが、アメリカだけは強く日本に抗議した。ウィルソン大統領は、「中華民国の主権を侵す日本の外交を認めない」と通告してきたのだ。日米関係の悪化を懸念した日本政府は、石井菊次郎を特命全権大使に任じてアメリカへ派遣し、ランシング国務長官との間で石井・ランシング協定を締結した。
中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方、アメリカも日本の中国における特殊権益を認めるという、両国の言い分を盛り込んだ暫定的な協定だったが、とりあえず、日米の対立は解消されることになった。

大隈重信
二十一カ条の要求を突きつけたのは大隈重信が首相を務めているときだった/国立国会図書館蔵
監修・文/河合 敦
歴史人2025年9月号『太平洋戦争のすべて〜戦後80年目の真実〜』より
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