幕末長崎から近代砲術を幕府に伝えた高島秋帆「その記憶が残る土地」ベットタウンとなった高島平の由来
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【3回】
先の大戦終戦から80年目の節目を迎える2025年現在、東京周辺に残る近代の軍事関係遺産は毎年のように破壊滅却されている。このような「近代軍事関係遺産」について、東京周辺に限定して紹介していきたい。本企画が遺産保存の一助になれば幸いである。今回は、幕末に近代洋式砲術模範試技場となった高島平を訪ねる。

火技之中興洋兵之開祖を号すことが許された高島秋帆(京都大学総合博物館蔵)
■高島秋帆による洋式砲術指南
今では広大な団地群となっている「高島平(たかしまだいら)」。この名前由来が、歴史的に有名な人物からとなっていることは意外に知られていない。
幕末ペリー来航以前から、日本近海には多くの欧米列強船舶が頻繁に接近してきており、盛んに幕府に対して開国・通商を要求してきていた。文政6年(1823)に来日した長崎出島オランダ商館医師シーボルトは、長崎奉行に今後ロシア、アメリカ、イギリスなどが日本への強硬的通商開国要求を迫ってくる可能性を指摘した。このため、幕府は文政8年(1825)、「異国船打ち払い令」を出し、主要港湾部の防備増強計画を進めた。
シーボルトの予言通り、天保8(1837)年、アメリカ船モリソン号が浦賀に「漂流民帰還」「開国要求」を掲げて来航したが、幕府は先の法令に則り撃退する事件が起きた。この処置に、シーボルトの弟子筋にあたる高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)らが批判する事件「蛮社(ばんしゃ)の獄」も惹起された。
天保11(1840)年、隣国清がアヘン戦争で英国に大敗する事実が日本に伝わり、長崎出身の高島秋帆(しゅうはん/1798~1866)は洋式砲術の必要性を感じ、長崎出島のオランダ人から最新洋式砲術の技術を積極的に学び、幕府にも『天保上書』という上表書を提出し近代洋式砲術の火急なる整備を訴えた。
この上訴を受け、幕府は天保12(1841)年6月武蔵国徳丸ケ原で「火術御見分(西洋式砲術模範試技訓練)」を多くの幕臣連前で開催した。この時、高島が本陣を置いたのが名刹萬吉山宝持寺松月院(ばんきざんもうじいんしょうげついん)で、彼は部下100人を使い8種類の洋式砲を駆使し、距離400~800mでの砲術試射を実行した。これを実見した幕府の首脳陣、諸大名連は洋式砲術の必要性を痛感し、江川英龍(ひでたつ/韮山の反射炉を後に創建)ら有望な人材を多数高島の門下にいれた。その一方、幕府は従来の方針を変更し天保13(1842)年に「薪水給与令」を発令して、打ち払いから薪水給与して退避させる方向に変更していった。
因みに高島は後年老中阿部正弘から「火技之中興洋兵之開祖」を号することが許可された。

高島秋帆顕彰碑(左)と建立時の記念写真(右)
■近代砲術普及活動への高島顕彰碑建立
明治維新後の大正11(1922)年、当時の有栖川家を筆頭に伏見宮、閑院宮(かんいんのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)など十三宮家が主体で高島秋帆の偉業を讃え顕彰するために松月院内に「高島秋帆砲術訓練記念碑」建立が企図され、高さ4mの洋式砲を模した「火技中興洋兵開祖碑」が建てられた。
日露戦争の日本海海戦で大勝した海軍首脳陣が一堂にかいして明治38(1905)年秋、六義園で戦勝記念式典を開催した。この時、東郷平八郎が挨拶の中で「このたびの勝利は横須賀のおかげ」と述べる部分があった。幕末、欧米留学から帰国した小栗忠順勘定奉行が近代工場横須賀製鉄所を創設して、維新後同所が造船所へと発展させたことが近代海軍の礎となった由来である。さすがに幕臣逆賊小栗の名前を出せないため、東郷はこのような文言となったのである。
このように、維新後も江戸幕府側の貢献を真摯に検討顕彰する動きは一部にみられたようである。
この高島顕彰完成記念式には、当時陸軍三官の教育総監秋山好古(よしふる)も列席している。秋山は当時最強のロシアコサック騎兵を打ち破る騎兵兵術を考案し、実行した経験から、高島の洋式砲術採用の先見性に大いなる共鳴賛意をもっていた。
このような経緯で、徳丸原は現在「高島平」と命名され、大団地となっている。近代洋式砲術模範試技場が大ベッドタウンとなっている現実を多くの方々に周知したい。