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【江戸の絵師列伝】関西を代表する浮世絵師・西川祐信 皇后から湯女まで100人の女を描いた人気絵師


はんなりとした関西独特の美人を描き人気を得た西川祐信。作品は地元以外でも流通し、後に続く江戸の浮世絵師たちに影響を及ぼした。


■出版文化が衰退し始めた関西で活躍

 

 有名な浮世絵師は江戸で活躍した人ばかり。出版文化に詳しい人ならば、江戸よりも先に出版が盛んになったのは、関西(上方)なのに? と思うかもしれない。明暦3年(1657)の明暦大火以降、江戸で出版が盛んになり、こうした中で出てきたのが、浮世絵師たちなのだ。京都を中心に作られていたのは、お経の本や説話集などが多かったため、浮世絵師たちが活躍する場面が少なかった。江戸で出版が隆起するのに対し、関西では出版文化が衰退し始める。だからといって関西に浮世絵師がまったくいなかったわけではない。

 

 関西で人気のはんなりとした美女を数多く描き、江戸の浮世絵師たちに多大なる影響を与えた人がいる。それが西川祐信だ。

 

 西川祐信は、寛文11年(1671)、京都で医術に携わる西川家の三男として生まれた。室町将軍や徳川将軍の御用絵師であった狩野派や南北朝時代から御所の御用を務めた土佐派という当時正統派とされた絵を習い、成人してからは公家の西園寺家に仕えた。

 

 元禄時代から本の挿絵を手がけるようになったとされるが名前が表には出なかった。宝永5年(1708)『本朝古今新堪忍記』で初めてクレジットされた。祐信が描く丸顔で柔らかく落ち着いた女性の姿が京坂で人気を博し、絵が中心の絵本を数多く手掛けるようになった。

 

 中でも『百人女郎品定』は、皇后から湯屋で客の背中を流す湯女まで100人の女性の風俗を見事なまでに描き分けているところが高く評価された。その高評価を受けて『百人女郎品定』は京坂だけでなく江戸でも人気となった。後に江戸で様々な浮世絵の形態を生み出した奥村政信や、美人画で名を成した鈴木春信に多大なる影響を及ぼした。

 

 この後も絵本を数多く手がけ生涯に300冊以上出版したとされる。その中には雛形というカタログもあった。当時、新しい着物はすべて仕立てるオーダーメードで、カタログを見て注文するため時間もお金もかかった。そのためごく一部の金持ち以外には縁のないものだった。といっても今のようなカラー印刷技術がなかった時代のことだ。江戸時代のカタログは、白黒で着物の柄が描かれ、生地や柄の色などの説明が記載されている雛形というものだった。ところが、祐信が手掛けた雛形は、着物の柄の説明だけでなく完成した着物を身にまとった女性が様々なシーンでポーズを決めているカットも掲載されていた。これを見た女性は、完成した着物を身に着けた自分自身を投影させて心を躍らせたに違いない。着物の注文も増えたことだろう。

 

 祐信はこのほか、肉筆の浮世絵も数多く残している。これもはんなりとした独特の色気を放った傑作ばかりであった。しかし、浮世絵といえば真っ先に思い浮かべる一枚絵の刷り物は今のところ確認されていない。というのもこの時代の関西では一枚絵の刷り物の浮世絵はまだ作られていなかった。もし、祐信が一枚絵の刷り物の浮世絵を手がけていたらどんな傑作が生まれたのだろうか。想像すると残念でならない。

柱時計美人図
柱時計の分銅の紐を結び、時間が過ぎて行くのを阻止しようとしている。限られた時間でしか会うことができない男女の仲を示唆としているといわれている。浮世絵の中に登場する時計はこのように単なるインテリアではなく、何かを代弁する小道具として描かれることが多い。この作品のようなふくやかで気品のある女性の描写が人々の心をつかんだ。
東京国立博物館蔵/ColBase

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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