風船爆弾を打ち上げた九十九里浜に残る「生活に溶け込んだ」本土決戦用の航空機掩体壕
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【2回】
先の大戦終戦から80年目の節目を迎える2025年現在、東京周辺に残る近代の軍事関係遺産は毎年のように破壊滅却されている。このような「近代軍事関係遺産」について、東京周辺に限定して紹介していきたい。本企画が遺産保存の一助になれば幸いである。今回は千葉県に残る、本土決戦に備えて築かれた掩体壕である。

千葉県旭市に残る掩体壕。農地と一体化している
■迫る米軍上陸に備えて外房に防衛線を構築する
1944年(昭和19)7月マリアナ諸島サイパン島などが陥落し、前年に設定した「絶対国防圏」が崩壊した。このため、超高度大型爆撃機「超空の要塞」B29の空襲が必須となったため、本土防衛の手段が急がれることになる。B29は当時の日本側爆撃機の約9倍の爆弾搭載量を誇っていた。また航続距離も約4500キロとマリアナ地域から日本本土の東北・北海道地域を除く全地域が爆撃可能ゾーンとなっていた。さらに、1945年(昭和20)3月硫黄島玉砕、6月沖縄戦終結といよいよ「本土決戦」が目前となり、首都圏防衛の緊急配備が必要となってきた。
一方、連合国側も3月に対日侵攻作戦「ダウンフォール」を策定、その中で九州侵攻作戦を「オリンピック」、関東平野侵攻作戦を「コロネット」と暗号名を付した。この「コロネット作戦」では、上陸海岸として湘南・茅ヶ崎、九十九里浜の2正面が策定されていたが、主力は茅ヶ崎方面であった。
日本側でも、この想定を予想して本土決戦用に約128万の陸軍部隊を配置し、第12方面軍(司令官田中静壱陸軍大将)司令部を日比谷に、第36軍司令部を浦和、第51軍司令部を水戸、第52軍司令部を佐倉、第53軍司令部を厚木に配備することになった。さらに、敵上陸地として九十九里浜を第1正面、茅ヶ崎を第2正面と想定し準備を進めることになった。
九十九里浜にはB29の空襲が始まった1944年11月ごろから銚子に「電探基地」を置き、木更津と茂原には迎撃用航空基地も配備していた。加えて、敵上陸地点九十九里浜には茂原、東金、旭地域に迎撃用航空基地を急遽構築した。事実、B29に体当たり攻撃をかけ撃墜した事例の目撃談も現地には残っている。
さらに、同じ時期日本から偏西風に乗せて「風船爆弾」が9300個も千葉県九十九里一宮、茨城県大津、福島県勿来から放球され、その1つは実際アメリカ本土で人的被害を与えている。

九十九里に残る「風船爆弾打ち上げ記念碑」
本土決戦計画が策定されていく中で、九十九里浜各地に防衛陣地が多数構築され、その中で航空機を空襲から守るための「掩体壕」も多く建設されていった。現在、千葉県旭市、茂原市、東金市にはこの「掩体壕」がいくつか残存している。
コンクリートで天井部を固め、外側上部は草木などでカムフラージュしたもので、規模の大きなものは大型戦闘機も格納出来たようである。戦後、多くは破壊されたが、堅牢な構造物のため現在でも倉庫、車庫、温室などに活用されている。茂原市は「市指定文化財」として保存し案内標識も設置しているため、日常的に見学は可能である。