平清盛はなぜ日本初の人工島築造を強行したのか? 兵庫の港大改修と福原遷都の彼方に夢見たものとは?
インバウンドから逃れたい! 「歴史&絶景」1日で巡れる関西の穴場【第2回】
JR神戸駅を起点に兵庫港をめざし、瀬戸内の海の風景、風の音に日本と大陸の往来の歴史を感じつつ史跡や寺社巡り、散策の締めくくりに兵庫津ミュージアムの展示を見学。ゆったりしたミュージアムカフェが、復元された初代兵庫県庁舎の中にあり、休憩がてらランチや午後の喫茶でくつろぐのもいい。あとは和田岬桟橋までベイエリアをそぞろ歩いて、現在の兵庫港を眺め渡して余韻に浸る。のんびりランチなどをはさんでのゆったりコース。
■今も昔も、兵庫は都と港の両輪で成り立つ

キャッチフレーズは「清盛ゆかりのまち兵庫」。兵庫港の築島水門で見つけた神戸・清盛隊。撮影:本渡 章
国際貿易都市・神戸は今も昔も港の街だ。奈良時代に行基(ぎょうき)が築いた大輪田泊(おおわだのとまり)が港の始まりで、平安時代には空海を乗せた遣唐使の船が出帆、平清盛による大改修を経て日宋貿易の基幹港となった。発展とともに兵庫津(ひょうごのつ)と呼び名も変わり、現在は、兵庫港が神戸港の西側エリアの名称として地図に載る。一方、兵庫県の名が兵庫津にちなむのは案外と知られていない。
港の歴史に大転換をもたらしたのは平清盛が築いた日本初の人工島、経ケ島(きょうがしま)だ。強風被害を防ぐ抜本対策とはいえ、風除けになる島を人力で築くのは言うまでもなく困難を極めた。失敗を重ねた末、ついには人柱を立てたとの伝承も残る。
あえて強行した清盛の真意はどこにあったのか。
清盛は時代を疾走していた。承安2年(1172)宋との貿易本格化のための交渉開始、治承3年(1179)後白河(ごしらかわ)法皇を幽閉しての政変、治承4年(1180)大輪田の港を見下ろす福原への遷都……10年足らずで清盛は、外交・経済・軍事・政治にまたがる大変動を主導した。人工島は応保2年(1162)に工事開始、承安4(1174)完成だ。時系列で見渡せば人工島築造が、大変動の助走、政変への跳躍台となるタイミングで進行していたのがだんだんと見えてくる。
港は変化を厭(いと)わない。時代とともに地形も変わり、経ケ島が現在の港のどこに位置したのかは不詳だが、今、兵庫港周辺の風が吹く道を歩けば、転々と昔と今が交錯する寺社、史跡があり、運河や水門、橋の風景がある。街なかなのに混雑はない。歴史散策の穴場で、清盛疾走の時代に思いを寄せるひとときをじっくり楽しみたい。
■人工島と清盛疾走の時代

「ビリケン様はこの奥にお祀りしてあります」との案内に導かれ、松尾稲荷神社のビリケン神に参拝。撮影:本渡 章
JR神戸駅から南へ約10分、アメリカ生まれのビリケン神を合わせ祀るお稲荷さん、松尾稲荷神社がある。湊川(みなとがわ)合戦に臨む楠木正成(くすのきまさしげ)が川の堤の松の根元に護符を埋めたのが社名の由来で、早くも今昔入り混じる風景がお出迎え。そこからさらに南へ行くと、平清盛ゆかりの寺社が続く。
まず、七宮神社。清盛による人工島の築造が暴風雨で困難を極めた原因が、大己貴命(おおあなむちのみこと)を祀る山を削った土で埋め立てたためと考えた清盛が、もとの社殿を現在地に移して七大明神として祀ったところ無事に工事を完遂できたという。七宮神社からさらに南の来迎寺(らいこうじ)は築島寺とも呼ばれ、築島(経ケ島の別称)工事の際に人柱とされかけた人々の身代わりとなって海に沈んだと伝える松王丸(まつおうまる)の供養塔がある。ちなみに経ヶ島の名は工事の完成を祈って、一切経(いっさいきょう)を書き記した石を沈めたとの伝承に由来する。

来迎寺(築島寺)の境内に人工島築造のために海に身を沈めた松王丸の供養塔、平清盛の寵姫だった祇王の墓がある。撮影:本渡 章
港の暴風雨除けに山を削って海を埋め立てるとは、近代以後の神戸市が推進した市街開発の手法である。平安時代、それはいまだかつて誰もやったことのない大工事だった。清盛はいったいどこから、その着想を得たのか。
先に挙げた人工島築造と清盛疾走の経緯に、もう少し情報を付け足してみよう。承安4年(1174)の人工島完成の数年前に清盛は福原にいて大輪田泊に宋の船を受け入れた。後白河法皇は福原で宋人に引見し、これを機に日宋貿易は拡大に向かい、清盛が入手した宋銭は貨幣経済を拡大させた。大きな権力と経済力を手にしつつあった清盛が、山を削り海を埋める、史上前例のない難工事を強行したのは、福原を臨み海外に開けた港の誕生に新時代の鐘の音色を聞いたからではないか。人工島築造のアイデアも進んだ港湾建設の知識を持つ宋人との交流のなかで得たのか。人工島完成で新時代にふさわしい港を持った清盛は、その後まもなく軍事力により後白河法皇を幽閉。平氏政権の確立に向けて政局は大きく転換する。
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