中高生が発掘! 秋山好古が創設した習志野騎兵旅団の建物が、近年まで大学キャンパスに現存していた
滅びゆく近代軍事関係遺産を追え!【第1回】
先の大戦終戦から80年目の節目を迎える2025年現在、東京周辺に残る近代の軍事関係遺産は毎年のように破壊滅却されている。このような「近代軍事関係遺産」について、東京周辺に限定して紹介していきたい。本企画が遺産保存の一助になれば幸いである。

かつて東邦大学構内に残っていた騎兵旅団建物
■奉天会戦でその名をあげた習志野騎兵旅団
1873年(明治6)当時は大和田原(おおわだがはら)と呼ばれていた地で近衛兵が紅白に分かれて「陸軍大演習」が実施された。これを白馬に乗り、西郷隆盛供奉の中謁見した明治天皇がこの演習を指揮した篠原国幹(しのはらくにもと)を褒めたたえ、「以後しのはらにならえ。ならえしのはら」から「ならしの原」命名が成立したといわれる。
その後、明治30年代フランスから帰国した秋山好古(よしふる)の提言で、将来のロシアとの戦争で当時「世界最強のコサック騎兵」と対決するため本格的な「騎兵旅団」を育成する目的で同地に独立した4個連隊の騎兵旅団が創設された。この第2代騎兵旅団長に秋山自身が就任し、日露戦争(1904~05)中での明治38年(1905)の黒溝台(こっこうだい)の戦い、同年3月の奉天会戦時での働きで、全世界的にも広く知れ渡り「習志野騎兵旅団」の名声も高まった。
その後、第一次世界大戦を挟んで、軍主力が騎兵から戦車へと進化したため、習志野にも騎兵に代わり「戦車連隊」「鉄道連隊」が創設された。
太平洋戦争後は、1945年(昭和20)に無傷のまま占領軍アメリカ軍に接収され、その後第13連隊跡は「東邦大学薬学部、東邦大学付属中高校」、第14連隊跡は「旧制東洋高校」、第15連隊跡は「東邦大学理学部」、第16連隊跡は「千葉大学」に払い下げられた。
上記の変遷中、残存していた木造兵舎群は徐々に取り壊され、平成時代に入ると現地ではほとんど見受けられなくなっていった。
■中高生の発掘調査で貴重な刻印レンガが見つかる

中高校生による発掘作業
2009年(平成21)から3年間にわたりNHKでスペシャルドラマ『坂の上の雲』が放映されることになったが、このドラマの主人公が「日本騎兵の父・秋山好古」であることから、地元習志野市は「地域おこし」の一端として積極的に地元に残る「秋山関係資料」「習志野騎兵旅団関係資料」の再発掘を行うことになった。
その結果、東邦大学習志野キャンパス内にある、司馬遼太郎氏の揮毫石碑や騎兵連隊の記念碑とともに大切に保存されている「武道場として使用されてきた木造建物」が注目された。
東邦大学でも1960年(昭和35)に起案された稟議書が発見され、その中に本建物が「明治33年12月新築」という一文の記述があることから、この建物こそが旧習志野原に現存する最古の陸軍騎兵関係の建物であることが確定された。
そこで建物の実測調査が建築学専門家等で行なわれ、建物の詳細な図面が作成された。その結果、同建物が明治初期に陸軍兵舎として各地に建設された「キングトラスト工法(柱を使わず三角天井からの梁部を三角形にして支える工法)」が採用されていたことが判明した。
次に東邦考古学研究会(中高校生のべ30人)による周辺発掘調査が山岸指導下で実施された。その結果、大量の「レンガ」「瓦」を発掘。その中に「桜マーク」刻印レンガがあり、過去のレンガ研究から1892年以降に製造された「東京小菅集治監(しゅうじかん)」のレンガだと断定した。当時、維新戦争を経て旧幕府側武士連が捕縛された後各地の「集治監」と呼ばれた「刑務所」に収容された。同所では、様々な作業の一つで当時需要逼迫していた「レンガ製造」が行われていた。その後、渋沢栄一が埼玉県深谷に本格的な「日本レンガ製造会社」を設立することになる。

出土した桜マーク付き(小菅集治監製造)レンガ
一方、発掘調査では建物南東隅で「陸軍五芒星」付きの換気口も検出された。
この結果、同建物が明治年間に建築されたことが中高生の発掘で証明されたことになる。因みに、この成果から東邦考古学研究会は九州国立博物館で開催された「全国高校考古学フォーラム」に招聘された。
残念ながら、同建物は2021年大学側の都合で取り壊されている。