柳生石舟斎に剣技を伝えた「新陰流」の祖<上泉信綱>
【日本剣豪列伝】剣をもって生き、闘い抜いた男たち<第3回>
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第3回は「新隠流」の始祖である上泉信綱(かみいずみのぶつな)。

「太刀 銘 助真」 (たち めい すけざね)
鎌倉時代中期、備前国(岡山県)福岡庄で名を馳せた一文字派は、非常に華やかな丁子刃の作風の刀工集団で、助真は同派の代表工の一人である。この太刀は茎が磨上げられており、のちに紀州徳川家に伝来した。東京国立博物館蔵、出典/ColBase
兵法諸流の始祖とか流祖とかいわれる人物たちは、槍、薙刀(なぎなた)など様々な武器の中から刀を選んだ。その刀も長大剣と呼ばれる大太刀(おおたち)から短い小太刀(こだち)まで、数種類の刀を使った。そうした中に、武者修行と称して諸国を巡った剣豪が出る。鹿島・香取の神道流を修めた塚原卜伝(つかはらぼくでん)は最も有名な剣豪であるが、同様に弟子を連れて廻国修行に出たのが、上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)であった。
信綱は、上州・大胡(おおご)城主の上泉秀継(ひでつぐ)の子として永正5年(1508)に生まれている。信綱の父の家は管領・山内上杉家に従属する小豪族であった。戦乱の最中、身を守るのは武術しかない、と信綱は幼い頃から興味を持っていた兵法(剣法)を習うために、鹿島に通い松本備前守政信(まつもとびぜんのかみまさのぶ)から剣と槍を学んだ。松本備前は、塚原卜伝の師匠でもあった。松本備前の次に信綱は、常陸に住んでいた愛洲移香斎(あいすいこうさい)の子・小七郎から「陰の流れ」を学んだ。
小豪族の城主としての立場もある信綱は、箕輪城(みのわじょう)・長野業政(ながのなりまさ)の家臣団の1人として小田原・北条氏康(ほうじょううじやす)、甲斐・武田信玄(たけだしんげん)などと戦い抜いた。長野業政が病死した後、信玄によって箕輪城は落とされた。この時に、信綱の武名を惜しんだ信玄は武田家に招いたが、信綱は「生涯、仕官はしない」としてこれを拒み、信玄も他家への仕官をしないのならば、と認め、名前の一字「信」を与えた。「信綱」を名乗るようになったのは、これ以後である。
信綱は、嫡男の秀胤(ひでたね)と二人の弟子、疋田文五郎(ひきたぶんごろう)と神戸伊豆宗治を連れて京に向かった。権大納言・山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』には「永禄12年2月2日大胡武藏守(信綱)が来訪」とあるなど、31ヵ所も日記に記している。将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に所望され、兵法を演じている。また正親町(おおぎまち)天皇に召し出されて兵法を天覧し、従四位下に任じられた。
奈良・柳生庄では、柳生石舟祭宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)から挑まれ、先ず疋田を相手にさせた。疋田に敗れても宗厳は信綱に「一手指南を」と望み、素手の信綱に敗れた。宗厳は、信綱に柳生館への逗留(とうりゅう)を願い、3年間信綱から教えられた。その結果、宗厳の剣技は数段と進歩し、ついに信綱から「新陰流」の秘伝を授けられた。これが「柳生新陰流」になる。
信綱の「陰の流れ」は、愛洲移香斎の陰流にさらに工夫を凝らし、剛腕と早業に頼らず心・技・体を鍛える円転自在の境地に達していた。信綱はこの境地を「転(まろばし)」と呼んだ。これが、新陰流の真髄であり、柳生宗厳は、この真髄を信綱から掴んだのであった。
その後も、信綱には将軍家始め様々な大名から仕官の声が掛かったが、信綱は信玄との約束通りに一切仕官には乗らなかった。富貴や立身には全く心を動かされずにその後も生きたが、没年も没地も明らかにしないまま、消滅するように信綱は人々の前から消え去った。和歌は一首残されている。「染ばやと心の色を墨染に 衣の色はとにもかくにも」。心の色は黒一色、衣の色は何でもよい、というほどの意味であろうか。信綱の人と技を示す和歌である。