赤松、尼子、毛利、豊臣…血に塗られた名城・上月城【兵庫県佐用郡佐用町】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第30回
播磨の雄・赤松氏、山陰を席巻した尼子氏が有し、治国の要ともなった、兵庫県に残る名城・上月城。要衝に立つこの城は歴史の激戦の舞台ともなった。
■織田vs毛利の前哨戦となった上月合戦の激闘の地

上月城は、麓からの高さが100mほどの荒神山に築かれた山城。
上月城(こうづきじょう)は、兵庫県佐用郡佐用町に所在する山城である。城が築かれている佐用は、鳥取に向かう因幡街道と、松江に至る出雲街道の分岐点であり、南下すれば姫路に至る。山陰地方と山陽地方を結ぶ、陸上交通の要衝であるとともに、佐用川(さよがわ)を利用した水運で繁栄した地域でもあった。
城は、蛇行する佐用川の西岸に面し、東西に長い荒神山の突端に築かれている。その尾根の上に曲輪を連ねており、東側と西側に堀切を設ける典型的な連郭式の城だった。ただし、麓からの高さは100mほどしかなく、主郭を中心にいくつかの曲輪が数えるほど構築されているだけで、城そのものは堅固とはいえない。

城は、蛇行する佐用川を天然の堀とするように築かれていた。
江戸時代の軍学者は、堅固三段と称し、城を守るには、国堅固・所堅固・城堅固という三つの堅固性を用いるべきだとした。国堅固とは、国そのもので守るという考え、所堅固とは城の立地で守るという考え、城堅固は城そのもので守るという考えである。ここでいう国とは、大名領国のことであり、上月城も、城そのものではなく、佐用郡全体で守るという理念があったのだろう。事実、上月城の周囲には、利神(りかん)城、福原(佐用)城などが築かれていた。これらの城と一体化することで、上月城は堅固性を強化していたのである。
現在、上月城の麓には町立の上月歴史資料館があり、上月城の解説のほか、佐用町の伝統工芸である和紙と人形の展示がされている。上月城へは、ここから登るのがわかりやすい。
城は、南北朝時代に赤松氏の一族である上月氏によって築かれたとされるが、詳しいことはわかっていない。当初は、荒神山のすぐ北側に位置する大平山(たいへいやま)に築かれていたとみられる。その後、荒神山に築かれた上月城が、現在残る上月城である。
室町時代には、上月氏の嫡流にあたる赤松氏が播磨国の守護となった。しかし、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)を暗殺したことで、赤松氏は追討され、播磨国は追討に功のあった山名氏の支配下におかれてしまう。
しかし、一族の赤松政則(まさのり)が細川勝元(ほそかわかつもと)に接近し、応仁の乱でも活躍したことで赤松氏の再興を果たす。上月城には、赤松氏の一族である赤松政元が入り、政元と子の政範の時代には、上月城の赤松氏は「西播磨殿」と称され、播磨国西部に覇を唱えていた。
やがて中国地方を制覇した毛利氏が播磨国に進出すると、赤松政範(まさのり)は毛利氏に従う。そのため、天正5年(1577)、播磨平定を織田信長に命じられた豊臣秀吉に上月城を包囲されてしまった。この戦いの結果、赤松政範は自刃し、城内にいた女性や子ども200余人は、備前・美作・播磨国境で串刺し・磔にされたと伝わる。

主郭は城内で最も広く、片隅には赤松政範の供養碑が建てられている。
赤松政範の死後、上月城に入ったのが、尼子勝久(あまごかつひさ)とその家臣・山中鹿介(やまなかしかのすけ)である。出雲国を本国とする尼子氏は、すでに毛利氏によって滅ぼされていたが、山中鹿介が尼子一族の勝久を奉じて再興を図ろうとし、毛利氏に敵対していた織田氏に接近していたのだった。
織田信長にしてみれば、尼子勝久・山中鹿介主従は、絶対に毛利方へ寝返ることがないという意味でも、安心材料だったのだろう。実際、上月城は、天正6年(1578)4月、3万余の毛利軍に包囲されるが、尼子氏が死守している。

山中鹿助
尼子家の忠誠をつくし「山陰の麒麟」と呼ばれるほどの武勇を誇った。その勇猛さと忠義ぶりは戦国でも名を轟かせるほどであったという。(東京都立中央図書館蔵)
ところが、同じ播磨国の別所長治(べっしょながはる)が三木城で毛利氏に通じたため、三木城の包囲に注力する織田方の支援を受けられなくなってしまう。結局、7月3日、毛利方の条件を受け入れた尼子勝久は一族らとともに自刃し、上月城は7月5日に開城された。このあとも山中鹿介は、復興を図ろうとするものの、捕虜として護送される途中に殺され、尼子氏再興の夢は完全に絶たれてしまったのである。

麓には、尼子勝久・山中鹿介主従の供養碑が建てられている。