戦国東北の戦跡を残す左沢氏の城・左沢楯山城【山形県大江町】
城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第28回
戦国の乱世はもちろん東北地方にも派生した。現在も東北には山城の跡が多く見られ、今回はその中のひとつ・山形県大江町に残る左沢楯山城という名城を紹介する。
■城跡から見られる絶景から「日本一公園」と呼ばれる城址公園になっている

最上川から望む左沢楯山城。川に面する曲輪群の一部が楯山公園として整備されている。
左沢楯山(あてらざわたてやま)城は、山形県西村山郡大江町に所在する。文字通り、左沢という地にある楯山に築かれた山城で、麓からの高さは120メートルほどである。
城は、いわゆる村山地方に位置しており、米沢市などのある置賜地方から庄内地方に流れる最上川が大きく東に蛇行する要衝に築かれている。かつては最上川を利用した水運の集積地だったところで、最上川を天然の堀にするとともに、船舶の航行を監視することができた。
城内は、東から西に流れる蛇沢(へびさわ)とよばれる沢を挟み、複数の曲輪群で構成されている。主郭は蛇沢の北側にあったとみられ、蛇沢の南側には最上川に面した曲輪が連なる。これら南側の曲輪群は、物見を目的としていたものであろう。
城の規模は東西1300メートル、南北600メートルにおよんでおり、東北地方においても有数の希望を誇る。このうち、最上川に面した曲輪群の一部のみが整備され、「楯山公園」として一般に公開されている。なお、公園は眼下を流れる最上川の絶景スポットとして人気を博しており、その絶景から「日本一公園」ともよばれている。

城下で大きく蛇行する最上川。水運・漁業の支配にも有利な立地だった。
左沢城の歴史については、詳しいことはよくわかっていない。一般的には南北朝時代、大江時茂(おおえのときしげ)の次男にあたる左沢元時(あてらざわもととき)が築いたらしい。大江時茂は、鎌倉幕府の政所別当として活躍した大江広元(おおえのひろもと)の嫡男・親広(ちかひろ)の後裔にあたる。親広は、父から出羽国寒河江荘を相続したが、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため没落し、子孫が鎌倉時代後期に、寒河江荘へ移り住んだとみられる。
ちなみに、大江広元の四男・季光(すえみつ)が相模国の毛利荘を本領とし、毛利氏を名乗っている。毛利季光は宝治合戦で三浦氏に味方したことから毛利荘を没収され、一族は残された安芸国の吉田荘に移り、戦国時代には毛利元就が戦国大名となった。つまり、左沢楯山城の城主であった左沢氏は、毛利氏と同族である。
それはともかく、南北朝時代の大江氏は後醍醐天皇の南朝に属しており、足利尊氏(あしかがたかうじ)の北朝に属す足利一族の斯波兼頼(しばかねより)らと抗争を繰り広げていた。そうしたなか、北朝に対する抵抗の拠点として築かれたのが、左沢楯山城だったということになる。

「三の丸」と称される曲輪から蛇沢を挟んで「本丸」のある主郭を望む。
室町時代において左沢氏は、同じ大江一族の寒河江氏とともに、村山地方に覇を唱えていた。左沢楯山城の発掘調査では、中国や朝鮮で生産された陶磁器も出土しており、栄華を誇っていた様子がうかがえる。
しかし、戦国時代になると、出羽国の平定を図る山形城主の最上義光(もがみよしあき)に圧迫されていく。最上氏の祖は、南北朝時代に左沢氏をはじめとする大江一族と対立していた斯波兼頼だった。そういう歴史をふまえると、左沢氏と最上氏の抗争は、宿命であったのかもしれない。

最上義光
出羽国の小さな勢力であった最上氏を、東北有数の大勢力へと押し上げた勇猛果敢な「虎将」。現在の山形周辺を制覇した。
最上氏による出羽平定に対し、左沢氏は、寒河江氏らとともに抵抗を続けた。しかし、天正12年(1584)に寒河江氏が滅ぼされると、左沢氏も寒河江氏と同じ道を歩んだとみられている。
以来、左沢楯山城は最上氏の支城となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方した最上氏の追討に向かった上杉景勝(うえすぎかげかつ)の軍勢に攻撃されている。しかし、関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わったことで、最上義光も左沢楯山城を取り戻すことができた。
最上義光の死後、孫にあたる義俊(よしとし)の代に、最上騒動とよばれる御家騒動がおこり、最上氏は元和8年(1622)に改易とされてしまう。こうして、最上氏の旧領は庄内藩・新庄藩・上山藩・本荘藩に分割された。
左沢には、庄内藩主となった酒井忠勝の弟・直次が1万2000石で入封し、左沢藩を立藩する。しかし、その後、近くに小漆川(こうるしがわ)城を築いて新たな藩庁とするにおよび、左沢楯山城は廃城となった。

削平された曲輪や尾根を断ち切る堀切などの遺構が残されている。