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悲惨な死に方をした柴田勝家は、秀吉を恨んだのか?【命日・6月14日】

日本史あやしい話5


柴田勝家といえば、織田信長の家臣で、勇猛果敢な武将としてその名を知られた猛将である。その人が、あろうことか、自らを死に追いやった秀吉を恨んで亡霊となり、自らの居城・北ノ庄城周辺を徘徊していたと伝えられている。しかも、首がなかったとの怪しげな話である。それって、本当のことなのだろうか?


 

■「見たものは死ぬ」恐ろしい言い伝え

柴田勝家像(筆者撮影)

 旧暦の4月24日、これが何の日だったのかご存知だろうか? 新暦に換算すると、今年は6月14日がその日。

 

 じつは6月14日とは、織田信長きっての名将・柴田勝家の命日。なあ〜んだ、それだけのこと?と、侮ることなかれ。この日の夜は、決して、外を出歩いてはいけない日だと、彼の居城・北ノ庄城周辺では言い伝えられてきたのである。

 

 この地域では、かつてこの日の夜、どこからともなく、首のない武者や馬の亡霊が行列となって、辺り一帯を駆け回っていたのだとか。恐ろしいことに、亡霊が徘徊したというだけでなく、「姿を見た者は必ず死ぬ」とまで言い伝えられていたから、おいそれと出かけるわけにはいかなかったのだ。

 

 北ノ庄城は、柴田勝家が築城したことで知られる壮大な城である。当時の天守は7層あるいは9層もあったと見られているから、彼の主君・信長が築いた安土城にも勝るとも劣らぬ巨城であった。北ノ庄城で武者の霊が出たとなれば、真っ先に勝家のことを思い浮かべたとしても無理はない。

 

 ただし首がない以上、それが勝家だったという保証はない。またがる武将だけでなく、白馬にも首がなかったとか。それに続く家臣と思われる一団もまた、首なしだったという伝承もある。

 

 その行列を目の当たりにした者は、腰を抜かすほど驚いただろう。しかも「見たものは死ぬ」とまで言われれば、もはや生きた心地もしなかったはずである。

 

 しかし、ここでハタと気がついた方もおられるのでは? そう、「見た者が必ず死ぬ」というのなら、いったい誰がこの光景を言い広めたのか……という謎である。実のところ、見た者が即死した訳ではなく、その翌朝までに死んだ者が多かったというから、それまでの間に、恐れおののいて大騒ぎし、噂が広まったとすれば辻褄は合う。

 

 加えてもう一つ、この光景を広めるのに役立った奇妙な逸話が言い伝えられているので紹介しておこう。それが、表具屋佐兵衛(ひょうぐや・さへえ)の命を賭した、とある試みであった。

 

■命を賭けて亡霊の姿を絵におさめた男

 

 なんとこの佐兵衛、噂として漏れ伝えられてきたこの奇妙な光景を、この目で確かめようと、命を賭けて行列を待ったというのだ。仮に自分が死んでもその情景が皆に知れ渡るようにと絵を描き、それを知人から預かっていた桐箱に納めたという。そしてその夜、本人は変死。

 

 その後、桐箱の持ち主が中に入っていた絵を発見し、これは不吉と焼き捨てようとした。ところが突如、突風が吹き荒れる。絵は風に煽られて屋敷の屋根に飛び火し、挙句、近隣にまで火の粉が広がって、大火事となってしまったのだという。

 

 宙に浮かんだその絵を多くの人が目の当たりにしたことで、その情景が広く知られるようになったのだ…とも。どこまで本当の話なのか定かではないが、多くの人が、この武者の亡霊を勝家と見なした。無念にも秀吉によって自害に追い込まれた彼が、それを恨んで亡霊となってさまよい続けているのだろう、と語られ続けているのである。

 

 しかし、それって、本当のことなのだろうか?

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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